「在日の英雄 義士元心昌」連載の第36回となる今回は、元心昌氏の統協時代の同志である全海建氏とともにした活動を紹介します。本紙1971年9月8日付、4面に掲載された全氏の寄稿文を、原文の文意を損なわないよう、気をつけながら圧縮してお伝えします。
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1958年に出された統協の声明書。見出しには「祖国平和統一のため具体的行動を!」と書かれている |
1955年1月30日、上野の下谷公会堂で南北平和統一促進協議会(統協)の創立総会が開かれた。その日、元心昌同志は議長団のうちの1人だった。式場は開会前から険悪な雰囲気であった。入口にはバリケードが張られており、誰でも出入りできる状況ではなかった。
重なっていた机を片づけて、総会をはじめようとした時であった。司会者が、「一同起立して、韓国の国歌を斉唱した後に、議事進行に入る」と案内をしたところ、式場の中から、「その必要はない」という抗議がでた。(国歌斉唱のため)起立していた人と、座っている人が入り乱れていた。「東海の水と白頭山が…」で始まる国歌を歌う人がいるかと思えば、口を閉じている人もいた。
まさにその時であった。どこかでピストルの音が聞こえた。棒を振り回す人もいた。次の瞬間、会場は修羅場と化した。このような険悪な状況で、元心昌議長は泰然自若としていた。いかなる動揺も見られなかった。誰も触れることのできない、貫禄のある人だった。
(日本の)警察機動隊が出動しても収拾がつかず、米軍の憲兵隊(MP)まで動員された。式場が収束したのは夜8時を過ぎてからだった。何人も残っていない中で創立総会は終わった。式場の外では乱闘や騒乱が続いており、負傷者も出ていた。
元同志はこの後、(全海建氏の居住地であった)神戸の日毛ビルディング4階で開かれた、統一懇談会にも出席した。その時も、多少の妨害はあったが、所期の目的は達成した。
日本で展開していた統一運動を、真っ先に破壊しようとしたのは民団側だった。当時は李承晩大統領時代で、統一云々をいう人全てに赤いレッテルが張られていた時期だ。羊と虎の区別もできない者が、反共の看板だけを担ぐことで忠誠心を感じていた雰囲気が広まっていた時期だ。真に祖国を愛し、祖国の平和と繁栄のために粉骨砕身する、義士元心昌の意を誰が分かっただろうか。
下谷公会堂の騒動の中でスタートした南北平和統一促進協議会は、同年6月25日、東京駅八重州口の国鉄労働会館で2回目となる大会を開催した。そこで、「南北」という二文字を、「祖国」に変えて組織の名前を、祖国平和統一促進協議会に改名した。
統協の最初の事務局は、上野の御徒町にあった。しかし、財政問題から日本橋の大同ビルディングに移った。その後、財政難がさらに深刻になると事務局を野外に移した。統協事務局長(兼代表委員)の元心昌時代は長く続いた。(筆者が入手した統協事務局の発刊記録物は1958年4月時点まで残っている。したがって統協活動期間は1954年末から1958年までの4年間とみられる。写真=声明書)
我々民族が念願する祖国統一を掲げて出現した統協は、どうしてこのような惨めな姿になったのか。元心昌同志の労苦は、どうしてこのように、報われることなく終わってしまったのだろうか。
よく考えてみると、統協に参加した民団や民戦の参加者は、統一運動に信念を持つ人というより、所属団体から派遣された人が多数だった。個人で参加した人も最後には脱退するなど、他の組織に移っていった。昇天する勢いに生まれた統協が予想外に早く衰退したのは、次のような原因があった。
1、祖国統一を促進する「統協」のスローガンは文字通り、在日同胞の願いを込めたものである。問題はその人気が過度に高かった。「統協」の光で、「民団」も「民戦」も存在感が弱まった。そのため、ある瞬間から「統協」を第三勢力であると中傷する声が広まった。新芽を切り捨てた格好となった。
2、寄付金、募金運動も問題であった。「統協」が活躍するとすぐに、他の既成団体に入る寄付が減少した。(これにより)両既成団体から嫌われる対象になった。
3、「統協」事務局長の元心昌に、思想的不満と不信を意図的に植え付ける動きがあった。「民団」は「統協」が「民戦」に有利な運動を展開していると不信に思い、「民戦」は元心昌が民団中央団長歴任者ということを口実にして、「統協」運動も民団に近いものだと疑って協力しなかった。
これらの理由から両既成団体は、「統協」運動を妨害し、見向きもしなくなったのだ。(約280人の盟員を置いていた)1954年秋から1958年までの「統協」運動、その期間、元心昌同志の労苦は計り知れないものであった。
(つづく) |