元心昌義士 遺族たちの証言
「在日の英雄 義士元心昌」連載の第35回となる今回は、これまでの話しから少し離れ、元心昌氏の遺族たちが伝える、生前の元氏のエピソードを紹介するコーナーとなります。
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民団の創団70周年記念式典で、元心昌義士のご遺族と、元義士に対する功労章を遺族たちに伝達する呉公太団長(写真中央) |
10月21日、東京グランドプリンスホテルで開かれた在日本大韓民国民団創立70周年記念式。第1部で行われた表彰伝達の最後の主人公は故元心昌義士であった。この日、民団中央本部の呉公太団長は、元義士に対する功労章を遺族たちに伝達し、「本団の初代事務総長と、第11・12代中央本部団長を歴任した義士は、日本植民地時代に抗日独立運動の志士として、解放後は在日同胞社会の発展と祖国の平和統一の運動家として献身した」と語り、「(功労章に)義士の崇高な愛国・民族愛の精神を賛え、これらに対する感謝の意を込めた」と明らかにした。
この行事への参加のために東京を訪問した元心昌氏の遺族は、元義士の息子である亨載氏の夫婦と、甥の英載氏、外孫の方孝卓氏だ。4人は生前の元氏と直接交わした会話や、他人から伝え聞いたエピソードを明かした。
元英載氏は1969年3月、元心昌氏に会いにソウル市庁の向かいのニューコリアホテル11階に行った日をはっきりと記憶していた。英載氏は、「北韓武装ゲリラによる1・21大統領府襲撃事件の翌年に、朴正煕大統領の招請で来られた」とし、「一晩ソウルで寝て平沢に行く際、大統領府で出してくれた黒色セダンに乗って一緒に向かった」と話した。
第1番国道に沿って向かう途中、水原の韓国料理店に立ち寄ったことがあった。その時、元氏はテンジャンチゲを注文した。当時、平沢の故郷の村である安亭里には水道が引かれていなかった。元氏は「井戸を掘りなさい」と元英載氏の父に20万円を渡したという。
外孫の方孝卓氏は李承晩政府の時代に幼少期を過ごし、常に監視を受けていたと告白した。方孝卓氏は、「日本植民地時代は日警(日本の警察)が監視していたが、私が幼い時は警察が監視していた」と話した。そして「ハルモニ(元徳基氏)の言葉では、日本のハラボジ(元心昌氏)を捕えるためだと言っていた」と話した。当時、平和統一運動は、韓国では反李承晩、北韓では反金日成運動とされていたためであった。一家に対する警察の監視は1969年頃からなくなったという。方孝卓氏は、「ハルモニから聞いた話だが、新年になるとハルモニをはじめとする家族が金九先生に新年の挨拶回りをしにソウルにあがった」とし、「1949年の夏、日本のハラボジが釜山港に入国したが、そこで金九先生暗殺の知らせを聞いて直ちに日本に戻ったこともあると聞いた」と伝えた。
彼は1976年10月のことも鮮明に思い出した。忠南の天安にある「国立望郷の丘」に元心昌氏の遺骨を持ってきた時のことで、当時彼は空軍少尉で、年齢は20代前半であった。
「曹寧柱団長はじめ14人の同胞代表団が来られた。曹団長が大きく響く声で、元心昌義士は一生を国家と民族のために、粉骨砕身した方だと何度もおっしゃいました」
元心昌氏の息子の亨載氏は、父の位牌を持って来た当時の本紙記者(朴得鎮民団新聞前主幹)の顔を憶えていた。この日民団の会場で、朴得鎮前主幹と嬉しい再会を果たした。
当時、在日同胞代表団として来た曹団長、鄭哲氏などは元氏とともに活動した同志であった。方孝卓氏は代表団から聞いたエピソードも紹介した。
「金九先生に対しても、自分の考えが正しいと確信がもてる時は、異議を唱えることも躊躇しない、まっ直ぐな性格だったようです。上海滞在中に一度、金九先生が会食の席を設けようとした時、日本のハラボジは『国民が膏血を流して送ってきた独立運動への寄付を、一銭たりともぞんざいに使ってはいけない』と抗議したといいます。それもそのはず、上海独立活動家の中で唯一日本のハラボジだけが、朝夕に豆腐売りをしていたといいます」
そばにいた英載氏も、その日、同胞代表団から聞いた話として次のように補足した。
「ポンテギ(カイコの蛹を調理した韓国料理のおつまみ)の商売もしていたそうです。同志たちが恥ずかしくてできないなか叔父は、自分が食べるのは自らで賄うべき、という意志を曲げなかったといいます。自分は飢えても、同志が飢えるのは耐えられない気性だったと、日本から来られた方々が話していました」
これらの話は親戚らによる偏向した証言ではない。 取材過程で接した様々な記録と、同志たちの証言から共通して確認できる、人間元心昌の評価が「博愛主義者」、あるいは「ヒューマニスト」であったためだ。 (つづく) |