蔡秉徳陸軍参謀総長はその時、午前2時頃にパーティーを終えて帰宅し、就寝中だった。当直司令から南侵報告を聞き、朝6時を期して全軍に非常令を発令した。申性模国防長官に電話が繋がらなかったため、長官官舎に行って状況を報告した。
国防部はKBSに連絡し、朝7時に北韓軍の南侵を報道させた。同時に政訓局が中心となって自動車にスピーカーをつけて市内を回りながら、外出や休暇中の軍人に即時帰隊を促した。申性模と蔡秉徳は、国軍が反撃すれば撃退できるとだけ繰り返した。
李承晩は朝食後、釣りに出かけたが、国防長官が緊急報告に来たとの連絡を受けて急いで戻り、10時半から執務室で会った。李承晩は11時35分頃、景武台を訪ねてきたムーチョ駐韓米大使に、まず小銃と弾薬の支援を要請した。
李承晩は午後、駐米大使の張勉に電話をかけ、ホワイトハウスと議会を訪問して米政府に支援を要請するよう指示した。李承晩は国務会議を招集して緊急措置をとるための大統領令377号(緊急事態下の法令公布の特例に関する件)を公布し、建国後初の2件の大統領緊急命令を公布した。緊急命令第1号の緊急事態下の犯罪処罰に関する特別措置令(1950年6月25日)と第2号の金融機関の預金等の支払いに関する特別措置令(同日)だった。
6月25日未明、東海岸の正東津と臨院津に北韓遊撃隊が上陸した。25日午後、北韓特殊部隊を乗せた武装輸送船が釜山の東北54キロの海上で韓国海軍白頭山艦に見つかり、激しい交戦の末撃沈された。1000トン級の武装輸送船には釜山港一帯を掌握するためのゲリラ600人が乗っていた。
白頭山艦(450トン級)は、創設時に戦闘艦が1隻もなかった海軍が、将兵の給料からの献金と海軍家族の縫製などで集めた1万5000ドルに、李承晩の資金を加えて6万ドルで購入した米海軍の退役艦艇だった。戦後、民間の実習船として使用されていたのを米国で整備。ハワイで3インチ砲を1門装備し、グアムで砲弾100発を購入して韓国に持ってきた。6・25勃発2カ月前の4月27日に艦番(PC‐701)が付与された。
6月25日10時頃、緊急出港した白頭山艦は約4時間後、水平線に怪しい煙を発見し、砲弾を節約するため武装船に接近して約1時間激しく交戦して撃沈した。2人が戦死したが、もしこの武装船を撃沈しなかったら、釜山港からの増援軍の展開は不可能になり、韓国は滅亡していたかもしれない。
アチソン米国務長官は、ワシントン近郊にあるメリーランド州の自身の農場で週末を送っていた。彼は夜10時に国務省から緊急連絡を受け、在韓大使のムーチョから北韓軍が南侵したという急報に接した。戦争勃発から約6時間だった。
土曜日だったが、国務省にはラスク極東担当次官補などアチソンの参謀たちが緊急招集された。アチソンは電話で、国連担当次官補のヒカッソンの意見を求めた。ヒカッソンは翌日(日曜日)の朝、国連安保理を招集し、北韓の武力攻撃中止を要求。在韓米国大使館と軍事顧問団に継続的な情報報告をするよう指示することを提案した。国務省は張勉を招致し、ラスクはムーチョの電報の内容を伝えた。
トルーマンは、ミズーリ州インディペンデンスの故郷の家で週末をすごしていた。アチソンは、米国東部時間6月24日夜10時、トルーマンに電話で状況を緊急報告した。(つづく) |