平壌から派遣された精鋭の基幹工作員を支援する朝総連の態勢を見てみよう。ベテランパイロットでさえ、旅客機を操縦するには、数多くの人員とシステムの支援を受ける。平壌から重要な任務を帯びた1人の工作員を敵地(日本、韓国など)に派遣して運用するにも、緻密な計画とそれを支える訓練された精巧なシステムが可動される。
原敕晁さんなどの拉致犯として有名な工作員・辛光洙のケースを見よう。辛光洙は自分が拉致した原さんになりすまして、日本当局から原さん名義の旅券と運転免許証などの発給を受けて完璧な身分を作った。辛光洙は、自分が韓国内に構築した工作網を検閲するため、1985年に日本からソウルに行ったときに逮捕された。彼が逮捕されたときに所持していたパスポートが原敕晁さん名義の旅券だった。辛光洙は、70年代から朝総連の別働隊だった韓統連(韓民統の後身。反国家団体)との関係を維持してきた金大中が大統領になった後、大規模な公安事犯に対する特別赦免で釈放された。金大中は2000年6月の金正日との会談から3カ月後、「非転向長期囚」の一員として辛光洙を平壌に送還し、拉致を指令した金正日の元に帰した。
辛光洙は逮捕後、韓国当局の調査過程で、直接証拠が明らかになった原敕晁さんの拉致だけは認めたが、ほかの日本人拉致関連などの余罪は追及されなかった。こうして日本は「拉致の生きる証拠」を失った。金大中の金正日との野合や「非転向長期囚」の北送などは、明白な国家元首の犯罪だ。金大中は、辛光洙を金正日の元に帰した直後、ノーベル平和賞を受賞した。日本人拉致犯の辛光洙を返した金大中を、日本に対して友好的な韓国の大統領と評価する日本人は少なくない。日本の大衆文化に対する開放措置をとるなどしたためだが、金大中は拉致の生き証人を拉致の指令者に返したことが明らかになった後も日本の大学で名誉博士号を受けている。
辛光洙は北送された肉親を持つ朝鮮連系を利用した。辛光洙が工作に活用した土台人などに関しては、内縁関係を装った朴春仙や原敕晁さんを物色して拉致した際に利用した朝総連大阪商工会の理事長などがメディアに報道されたが、辛光洙が実際に接触した人ははるかに多かったと思われる。
辛光洙事件に見られる特徴は、北韓に縁故のある朝総連系の人を広く活用しただけでなく、朝総連組織そのものを積極的に動員したという点だ。朴春仙を紹介したのは朝総連東京本部だったようで、これは平壌の労働党対外情報調査部が朝総連の組織も動員できたことを物語る。
辛光洙事件でもう一つ目を引くのは、平壌からの工作員が工作活動に必要な資金をどう調達したのかということだ。朝総連の対南工作に協力した経験を持つある在日は、平壌の労働党工作部署が日本に工作員を派遣する際、初期は工作員に米ドルや金塊を与えたことを覚えているという。朝総連系の信用組合などに上部からドルをひそかに両替するようにと指示が下されれば、また平壌から工作員が来たのかと推測したという。ところが、いつからかそのような両替指示はなくなったという。
辛光洙の場合、彼が73年に北韓の工作船で日本に初めて潜入した時から、日本に定着して長期的に活動するのに必要な工作金を持って来なかったと見える。辛光洙の調査と裁判資料によると、辛光洙は長野県の朝鮮総連商工人・鄭武鎭を訪ねて鄭の北送した息子の写真と録音テープを見せて工作金として4000万円をもらったという。
辛光洙は朴春仙の妹が経営していた東京のJR五反田駅の前にあったクラブでも働き、後には自分の工作アジトとして池袋で直接クラブを経営する。このような工作資金は、上記の鄭武鎮のケースのように日本で調達したと見られる。辛光洙は在北家族のことを考えて韓国当局の捜査に積極的に協力しなかったようだが、金大中は政府関係当局の強い反対を押し切って、辛光洙の北送を命令した。それによって北韓の国家犯罪である拉致の証拠を隠滅したのだから、金正日の共犯といえよう。
ちなみに、朝総連は辛光洙が韓国当局に逮捕された後、平壌の指示に従って辛光洙釈放を要求する政界工作を展開した。朝総連の工作に応じて、社会党を中心に国会議員らが署名して盧泰愚大統領(当時)宛の嘆願書を提出した。余談だが、1980年代に朝総連は金で日本の国会議員の半分ほどは動かせたのではないかと話す関係者もいる。(つづく) |