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2016年10月19日 00:00
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大韓民国の建国史(46)
訓練に偽装し、奇襲南進を達成した金日成

 南侵11週前の4月28日、民族保衛相の崔庸健は「夏季各兵種作戦訓練」を6月1日から10月31日まで実施せよとの指令を下した。大兵力と物資が38度線の方へ移動し始めた。4月3日、15億ウォンの公債発行が発表された。
各師団は中央銀行から「訓練費」の名目で一斉に巨額のお金を引き出した。朝鮮労働党は公債発行を「米帝国主義の侵略政策を暴露・粉砕し、内乱挑発と人民虐殺に狂奔する李承晩徒党らを掃討し、中国の統一独立を促進するもう一つの力になる」と宣伝した。
人民軍は南韓が通信を盗聴すると予想し、撹乱対策として有線放送を通じて「夏季戦闘訓練中間総括」を報道した。迅速な部隊の移動のため、6月8日から一般住民に旅行禁止令が下され、鉄道は軍用列車のみ運行が許可された。
6月15日、砲兵司令官の武亭は「現在、部隊が保有している砲弾に全部信管を結合して射撃に備えよ」と命令。結果を6月23日までに報告するよう指示した。
金日成はソ連軍事顧問団の意見を受け入れ、前方の2個軍団を指揮する戦線司令部を編成した。戦線司令官には金策大将、総参謀長に姜健中将、軍事委員に金一中将が任命された。戦線司令部は、植民地時代に日本軍の弾薬庫として使用された、平壌近郊の洞窟内に設けられた。二つの補助指揮所を金川と華川の旧坊里に置いた。
6月22日から23日頃、38度線から500メートルないし7キロメートル地点まで前進して攻撃態勢に入った。6月23日から24日の深夜まで38度線の数キロ以内に人民軍の7個師団のうち5個師団が集結した。工兵隊は6月24日の夜、前方に埋設された地雷を除去し、大砲の一部は南の地に布陣した。
38度線は元々正規軍ではなく、内務省傘下の3つの警備旅団の担当だった。ところが、6月25日に人民軍の7個師団が展開して南侵を開始。人民軍は最高幹部を除いては、全指揮官と将兵たちが戦争開始まで「軍事訓練」を継続し、訓練の連続線上で南侵につながった。攻撃命令は6月23日と24日に下された。
6月24日の夜11時、東海岸に駐留していた766遊撃隊(別名・南道部隊)の1個大隊が呉振宇の歓送を受けながら乗船し、38度線を超えて6月25日の未明に蔚珍、三陟、浦項などに上陸した。
攻撃は6月25日の午前4時に38度線の全域で砲兵の攻撃準備射撃によって始まった。30分間の準備射撃の後、人民軍師団は戦車を先頭に南侵を開始した。戦線司令部は6月25日の朝9時に人民軍6師団が開城を占領したという最初の戦況報告を受けた。開城占領報告を受けた金策司令官以下参謀たちは歓声を上げたという。
南侵と同時に内務省警備局の旅団は人民軍部隊に改編された。内務省経費局3旅団長の崔賢は警備局第3旅団の2個大隊と第1師団14連隊の兵力を指揮して甕津半島を防御していた国軍第17連隊を攻撃した。
不意の奇襲を受けた17連隊は、秩序をもって後退し、6月26日の午後4時頃、主力部隊が船便で甕津半島から撤収することに成功した。崔賢部隊は海州を占領した後、開城と〓山を経て、6月29日、ソウルに到着する。
ソウル攻撃の主力部隊は人民軍3師団、4師団と105戦車旅団の2個連隊だった。105戦車旅団は鉄原から抱川までほとんど抵抗を受けなかった。4師団は6月25日に議政府まで進出し、3師団は抱川を占領した後、松偶里を経て、6月26日正午、議政府市内へ突入した。      (つづく)

2016-10-19 3面
 
大韓民国の建国史(45)
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