われら韓国人、在日韓国人は誰なのか。そして、われわれは今、なぜ混乱し不安なのか。韓国社会が今極度の混乱に陥っている原因は明確だ。建国からの68年間、国家は建設したのに、国の主人たる国民がまだ育てられていないためだ。何よりも、71年前に強いられた南北分断という根源的矛盾をまだ克服していないからだ。
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1959年12月28日に出港した第3次北送船(小島晴則氏撮影) |
個人であれ国家であれ、目標がなければ迷い葛藤することになる。もちろん、大韓民国には明確な国家目標がある。いうまでもなく、北韓解放・自由統一だ。韓国社会の葛藤は、この明確な目標を否定することに起因する。
韓国社会の今日の混乱、特に理念葛藤は、解放直後に似ているとよく指摘される。そのとおりだ。今の混乱の淵源は分断をもたらした解放空間である。1945年8月15日、植民地朝鮮に解放が突然訪れてきた。強大な軍国主義日本が降伏したのだ。自力で近代国家を建設する能力が備えられる前に解放がやってきたのだ。まったく準備されていないまま迎えた解放は当然混乱した。どういう国を建てるべきかについて具体的なビジョンと合意はなかった。
軍国主義から解放されたのは、植民地朝鮮と朝鮮人だけではなかった。日本国民も軍国主義から解放された。日本社会は敗戦の衝撃があまりにも大きすぎたため、その事実を感じなかっただけだ。明確に感じなかったとしても、日本が軍国主義から解放されたのは、文明史的に見て否めない事実だ。
解放された朝鮮人と日本人はそれぞれ異なる未来に向かって進むことになる。日本はまず戦前へ戻ること、つまり敗戦で破壊された街を回復することが目標だった。だが、朝鮮人たちにはそもそも戻るべき「以前」がなかった。戦いもせず国と民を日本に渡した封建体制の朝鮮王朝に戻ることを誰も望まなかった。
南北韓は米軍とソ連軍に分割占領された。南韓には先進海洋文明が移植された。北韓にはスターリン主義・全体主義が暴力的に移植された。日本との関係が物理的に遮断されて日本の痕跡は急速に消され、韓日両国国民間の和解の機会も消えた。
全体主義の暴力が本質であるスターリン主義は、暴力をもって短期間で革命的に移植することができるが、人間の認識能力と教養を前提とする自由民主主義は、容易に移植できるものではなかった。長年の努力と熟成が必要なのが人間の理性の活動だ。経済では圧縮成長も可能だが、認識と教養は短期間で成長できるものではない。
解放空間で、在日同胞の求心体として登場したのは、不幸にも民族主義を刺激する社会主義者、共産主義者だった。在日朝鮮人は、当時の状況を客観的に判断し、将来を展望することができなかった。無理もない。1960年代になって独立を得るアフリカ大陸のほぼすべての国が社会主義を最も進歩した体制だと信じて受け入れた。自由民主主義と市場経済は、構成員に義務と責任と忍耐を要求するが、社会主義は簡単だった。平等という理念だけで充分だった。だから後に歴史の反動勢力だったと判明する共産主義を支持した。
多くの朝鮮人が日本共産党に入った。共産主義や社会主義が20世紀の人類社会を後退させたという事実は、当時から見れば遠い将来に証明されるものだった。
ソ連軍が占領した地域では、スターリン主義のみが許された。米軍が占領した韓国と日本では、共産党が跋扈した。その理由は、戦後の秩序をソ連との協力で作りだせると思っていた米国務省のリベラリストたちの所為だった。
戦後のこの風潮の中で、反共民主主義を選択した少数派がいた。アジアの自由民主主義の先覚者・李承晩は、人口1000人に1人の割合であるわずか2万6000人の高等教育を受けた人材だけで、自由民主主義体制の国を建設した。新生大韓民国が自由民主主義先進国の米国と同盟を結び、発展の礎を築いたのは、全的に建国大統領・李承晩の功である。
日本でも反共民主主義を信奉した韓国人は共産党が主導権を握った朝連を拒否し、民団を作った。民団は反共民主主義に透徹したことで、文明史の流れに乗ることができた。
民団は去る70年間、自由民主主義を守る闘いで共産主義と対決し、数的劣勢の中でも組織を保衛してきた。そして朝総連に打撃を与える何回もの決定的な勝利を収めた。
1960年代の北送事業反対闘争と日韓国交正常化支持や永住権取得の運動、1970年代に朝総連の民団瓦解工作に対抗した組織整備事業、虚偽に立脚した朝総連の組織基盤を崩した墓参団事業などは、民団が公館の指導と支援の下、日本を舞台にした南北対決で輝かしく勝利した歴史である。
民団がアイデンティティの混乱を経験し、組織が活力を失っていくのは、反共民主主義を恥ずかしく思い、自ら反共を遠ざけはじめる頃からである。(つづく) |