元心昌氏が統協(南北統一促進協議会)を結成し「平和統一運動」の旗印を掲げた決定的動因は、6・25動乱により罪のない人々が惨めに死んでいく姿を目撃したためだ。元氏は動乱の真っただ中の時期に、民団の事務総長と中央団長などの要職を務め、642人の在日同胞学徒義勇軍の派遣に関与した。動乱のなか玄海灘を渡り、戦争の惨状を現場で直接確認したこともあった。
「罪のない血の教訓」を痛感した元心昌氏は民団(韓国)と民戦(北韓)に代表される、一方に傾倒した組織では分断された祖国を統一する運動は不可能とみた。統協は日本のなかで南北対立の構図がより深刻になる前に、民族構成員の「心を一つ」に集めてみようという試みであった。統協は祖国の平和的統一を協議する公論の場として、平和統一を大衆運動に拡散させていくという明確な方向性を持っていた。
そして統協は開かれた組織を目指した。綱領に掲げた入会条件では、団体や政党、思想、信仰を問わないという原則を打ち出した。 その結果、親日の疑いのある者や左右派、事業家まで様々な経歴の持ち主が統協のメンバーに入ってくることになり、それが民団などから「雑流の妄動」と批判を受ける根拠になった。統協結成の動機は、統協が1958年3月1日に発表した「統協精神に戻れ」という文書から読み取ることができる。
「6・25韓国戦争の教訓を忘れて、再び南北武力戦を起こした場合、今度こそ民族統一でなく、民族滅亡を招くだろう。さらに世界大戦に拡散され、人類の滅亡を招くかも知れない。このようなことがあって良いのだろうか。祖国平和統一の理念は、我々民族三千万同胞の総意であり、良識ある世界の人々も支持することだ」
それならば、統一運動の現場を日本に選んだ理由はなんだろうか? 一次的に祖国大韓民国では、どちら側にも偏らず統一運動を行うことが困難な状況であったためだ。韓国の自由党政府は「平和統一」を主張すること自体を、国家反逆罪の処罰の対象とした。北韓は、金日成政権のスローガンで平和統一を掲げてはいたが、「人民共和国の旗印の下に国土を完成する」として韓国政府破壊の立場を持っていた。
そのような面で日本は南北体制による対決が繰り広げられている現場でありながらも、自由に統一運動を展開することができる中間地帯であった。隣接国家で祖国への移動手段も良く、統一の意志を世界世論に訴えるためにも良い条件を備えている。統協のメンバーらは、「実に、生まれるべき時に、生まれなければならなくて、生まれた」と自評した。
1958年2月、統協メンバーの李禧元氏は英字紙国際タイムズに寄稿した文で、統協精神をこのように説明した。
「(統協は)平和的な方法で祖国の統一を心から念願してきた人々の組織だ。祖国統一のために平和的な方法を議論して協議する場がまさに統協だ。平和統一を望む者は協議の精神に立たねばならない。だからこそ私たちは訴える。祖国の平和統一を望む同胞へ。統協精神に戻れ。(中略)すべての知恵と愛国的情熱を注ぐことこそが生きる道であり、祖国復興の長道であり、民族再生の道である」
一方、南北が分断されて以降初めてとなる統一運動は、熱烈な歓迎を受けた。 1955年の創立から1カ月ほどが経過した頃、東京で開催した3・1節集会には、何と2万人の在日同胞が殺到した。平和統一と民族の再融合を追求するという潮流が左右を問わず広がった。在日同胞社会を統協が席巻したといっても過言ではない程、熱烈な歓迎と期待を集めた。
それだけではなかった。統協は世論を先導するキャンペーンも展開し始めた。その年の3月25日、統協は第3次中央常任協議会を開き、祖国平和統一促進署名運動の開始を議決し、5月4日には核戦争反対の署名運動を展開することにした。署名運動は統協が企画・主導した。ただしこの時、民団を排除して民戦系団体を参加させた記録が残っている。その年の10月末時点で祖国の平和統一および核戦争反対に署名した在日同胞の数は東京、大阪、北海道をはじめとする全国23の地方で10万5109人に達した。
その他にも、統協の威勢を立証する記録は多数残っている。その年の6月1日から2日、統協が大阪の天王寺真田山運動場(大阪市天王寺真田山町)で開催した「祖国平和統一促進民族体育大会」には、日本全域から2万人を超える同胞が会場を訪れ親睦交流活動を行った。組織化の作業も着々と進められた。このころ統協は日本全国の17の地方に「統協協議会」を結成していた。 (つづく) |