ソ連は北韓に6個の歩兵師団、3つの機械化部隊、8個の国境守備大隊に必要な武器や装備、そして偵察機20機、戦闘機100機、爆撃機30機を提供すると約束した。さらに100人以上の軍事顧問団を1年の予定で北韓に派遣するとした。最初の顧問団は1949年5月に到着した。北韓軍の戦力増強は、1949年末から1950年まで冬季に行われた。
1950年の春、ソ連から北韓に武器空輸が増えた。ソ連は、人民軍1個師団にソ連軍将校を15人ずつ配置した。180機の軍用機、第2次世界大戦でドイツ軍タイガー戦車を撃破したT‐34型戦車300両、野砲など現代兵器を大量供給した。北韓は、植民地時に日本が北韓全域に建設した多数の機械、化学工場のおかげで、多発銃と海岸警備艇まで生産し実戦配備した。
当時の国際情勢を概観すると、ソ連は米国の核技術を盗んで核実験に成功(49年9月)し、米国との間で核兵器の「恐怖の均衡状態」を達成した。中国大陸では、共産党軍が49年4月21日、揚子江を渡って蒋介石政府の中心都市だった南京を陥落した。蒋介石政府を支援していた米国は、この重大な事態にも米軍を派兵する余力がなかった。このような状況を見ていたスターリンは、金日成が南侵しても、米軍が韓国を救うため参戦することはないと判断した。
南京を占領した毛沢東軍は蒋介石の国民党軍を破竹の勢いで打ち破り、中国大陸を共産化。10月1日、中華人民共和国を樹立した。
スターリンは毛沢東を信頼しなかった。理由は1938年、中国共産党の主導権を掌握していたソ連留学派を毛沢東が粛清し、1941年にソ連がナチスドイツの攻撃で危機に直面したとき、スターリンは毛沢東に「日本のソ連攻撃を予防するため、対日攻勢に出てほしい」と要請したが、毛沢東は拒絶した。スターリンは、中国共産党が結局、反ソ・反マルクスの集団に変わると予想した。スターリンは1945年8月14日、蒋介石と友好同盟条約を締結した。
スターリンは、国共内戦が長期化し、蒋介石と毛沢東が消耗しあうことを期待した。しかし、毛沢東が簡単に蒋介石を制圧し、全中国を占領するやソ連の立場が妙になった。中国がティトーのユーゴのように独自路線を歩きながら、米国と妥協すれば、ソ連が孤立し得る状況になるからだ。
スターリンは、ティトーの独自路線を容認できなかったし、毛沢東がアジアの英雄になることも望まなかった。ところが、建国後の中国と北韓の連合を遮断するのは簡単な問題ではなかった。残された方法はスターリン自身がアジアの革命で主導権を握ることだった。
この渦中で金日成が南侵許可を要請すると、スターリンは金日成を利用して米国と中国間の葛藤を激化・悪化させ、ヨーロッパでの米国の軍事力を弱体化させるという戦略を構想する。金日成は1950年3月30日、モスクワを訪問してスターリンに南侵許可を要請。スターリンは4月10日、南侵を許可した。
スターリンは、ワシリーエフ中将を平壌駐在ソ連軍事顧問団長として派遣、北韓の南侵攻撃作戦計画を作成させた。スターリンは金日成とのモスクワ会談で、次のような戦争の構想を明らかにした。スターリンは、具体的な攻撃計画の重点を強調し、3段階の基本作戦計画を樹立するように命令した。その第一段階が、38度線一帯に戦闘力を集中配置することだった。(つづく) |