李承晩が米国から必要最小限の武器支援も受けられない状況で、スターリンの東アジア戦略によって韓国の安保環境は急速に悪化した。スターリンは1949年3月、金日成と朴憲永がモスクワを訪問したとき、ソ連と北韓間の文化・経済関係条約と、秘密軍事援助協定を締結(3月17日)した。北韓と中国共産党は今も、6・25戦争が李承晩の北侵戦争だと主張するが、スターリン・毛沢東・金日成の謀議を立証するロシア側の史料はほとんど公開されている。
蒋介石の国民党軍が敗退した後、毛沢東は中華人民共和国の建国を宣布した。アジア大陸に接した韓国は、米ソが先鋭に対立する舞台となった。李承晩は1949年9月30日、自分の広報顧問のロバート・オリバーに、ソ連と共産主義の脅威を警告し、米国が冷戦で負け戦ばかりをしていると嘆息する手紙を送った。
米国務長官のディーン・アチソンが1949年9月、「韓国に対する援助法案が通らないと韓国は3カ月以内に崩壊する」と米議会を説得した。しかしながら米政府は、韓国軍の武装のためのいかなる改善措置も講じなかった。李承晩は10月24日、オリバーに送った手紙で、共産軍の南侵準備に関する具体的な動きと、韓国軍の武装を支援してほしいという切迫した内容を、米国のメディアと世論主導層に知らせるように頼んだ。
韓国軍の惨憺たる実情にもかかわらず、李承晩は公に何度も北進を主張した。李承晩の主張は、韓国が建国以前から内戦状況にあり、全土が共産化しうるという危機意識の中で、国民の政治的・精神的な結束を強め、軍と警察の士気と戦意を高めるためのスローガンだった。このスローガンは、南北協商による平和統一論や北側の攻勢を制し、南北間の正統性競争で優位を占める宣伝材料だった。
しかし、李承晩の期待は外れる。米国は機会があるたびに、北進政策に対する憂慮と無謀さを警告し牽制した。1950年1月に発表された「アチソン宣言」がその例だ。駐韓米軍事顧問団長のロバーツ将軍は「韓国が北韓を攻撃すれば、米国は韓国に対するすべての支援を中断する」という警告声明を発表した。
米国務省は1949年12月23日、「台湾に関する政策的宣伝方針」という秘密命令第28号を作成した。この文書で国務省は、台湾が歴史的にも地理的にも中国の一部であり、中国は分離できない完全な国家であると強調した。したがって台湾を支持することは米国の利益に不利であり、米国を危険な戦争へと導き、中国国民と対立させると指摘した。
1950年1月5日には、トルーマンが「台湾問題に関する声明を発表し、カイロ宣言とポツダム宣言の中で台湾の中国への帰属に関する条項を再び確認した。トルーマンはこの日、「米国は武力を動員して台湾の今の情勢に干渉する計画がない。米政府は、米国を中国の内戦に巻き込むようにするいかなる経路も拒否し、台湾軍隊に対する軍事援助および諮問も提供しない」と宣言した。
1950年1月12日、アチソンは、ワシントンのナショナルプレスクラブで「アジアの危機―米国政策の試験台」という演説を行った。アチソンは「アジアにおいて米国の防御線は、アリューシャン列島から日本を経由し、沖縄と台湾を経てフィリピンへとつながると宣言した。そして「台湾と韓国はともに米国の防御線の外に位置する。米国は米国の防御線の外のことには関与しない」と宣言した。
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