民団は「在日唯一の民主団体」
1948年9月8日、大韓民国政府は民団を「在日同胞唯一の民主団体」と認めた。民団はそれから1カ月後の10月4~5日にかけて、第5回全体大会を民団本部講堂で開催し、団体名の改称を決議した。この時、民団は祖国の国号である大韓民国を付けて、「在日朝鮮人居留民団」から、「在日本大韓民国民団」に変えた。そして、民族組織としてのアイデンティティを盛り込んだ「5大綱領」を採択した。この時いわゆる「民団第2宣言」を通じて、民団はなぜ大韓民国支持をすることになったのか、その立場を明確にした。
「朝鮮人連盟は思潮運動の地盤と化してしまい、民団は前者の抑圧を受けてその発展が遅遅としてしまった。このようなことから、民族、連合軍司令部、日本当局に向けて民族の代表団体という合理的支持を受けられずにいた。(中略)大韓民国政府が樹立されて政権が確立し、本国政府から本団の公認章を去る9月8日付で伝達されることになった。公認を受け法的保障を受けることになり、今やはじめて本団は民族の代表として外交を行い、在留(在日同胞)60万の生命と財産を保護して、民族の安寧を堅守し、全同胞の信頼と支持を得て、画期的で新たな出発を宣言するものである」
この時、確立された民団の5大綱領は、大韓民国国是遵守を第一として、在日同胞の公民権擁護および民生安定、文化向上、国際親善を期するものであった。民団綱領は民族組織としての存在の理由、アイデンティティを圧縮しているといえる。
これに先立ち、朴烈団長は1947年4月8日、李承晩博士と再開した。東京での2次会談、李博士は国際連合(UN)で韓国の独立を訴えて帰国する途中で日本に立ち寄った。李博士は民団に、「韓国だけがUNの監視下で選挙を行えるため、韓国地域での選挙および単独政府を樹立しなければならない」と不可避性を力説した。
これに対して朴烈執行部は賛同した。同年6月30日、民団新聞を通じて、「建国運動で共産主義を排撃する」との主張を発表した。それに続き、同年の12月6日の第4回中央理事会では、UNから韓国の独立案として提起された「UN監視下の総選挙」を支持すると公式決定するに至った。
民団が総選挙を支持した理由は次のように要約される。
「総選挙が38度線を境にした単選であっても、軍政を目的としてはならず、南北統一政府の樹立が究極的な目的でなければならない。現実を勘案した時、総選挙(1948年5月10日実施)以上の合理的な方法はない。総選挙を通じて樹立される政府は『国際社会が公認する政府』になるので歓迎すべきことである。さらに政府樹立は民族の主権が確立されることでもある」
しかしこのように表面的に団結した結束力とは異なり、水面下では本国の総選挙をめぐる意見対立が激化していた。団員のあいだでの葛藤に朴烈指導路線は揺らぎ、そして悪いことに財政難まで重なった。朴団長は大阪の経済人、黄性弼氏を副団長に起用するなど難局打開に乗り出したが収拾は遥かに遠かった。
「元心昌、李康勲などの重要幹部が民団から退陣することになり、朴烈体制は崩壊期に入りはじめた」 (民団40年史64ページ)
ついに朴団長は1948年2月20日、辞任声明書を発表した。初代から5代まで団長職を引き受けた彼は、在日同胞独立活動家の象徴的な存在として共産勢力に対抗した指導者であったが、彼の役割はそこまでであった。この時、元心昌氏も一線から退いた。しかし復帰までは、それほど長い時間はかからなかった。1949年4月1・2日、京都韓国会館で開かれた第6回臨時大会で副団長として復帰したのだ。
しかし民団組織の危機が和らぐ兆しはみられなかった。この大会で朴烈氏の後任に鄭翰景氏を選出したが、彼は職をまともに行うこともできないまま2カ月で退いてしまう。決定的な原因は駐日代表部との対立が挙げられる。
鄭団長は駐日代表部の初代公使出身で、日帝時代、米国で李承晩初代大統領とともに、「大韓人国民会」を組織した独立活動家であった。そんな彼を駐日代表部の鄭桓範大使は認めようとしなかった。鄭翰景執行部の副団長である元心昌氏は1949年5月23日、本国政府に大使召還要請書を提出して代表部に対抗した。この時、元氏とともに要請書に署名した要人は権逸、金正柱、曹寧柱、鄭寅錫、金煕明などだ。
以来対立していた2つの勢力は、選挙で新しい執行部を選出することで意見を集約した。6月9日、民団は東京本部に第7回臨時全体大会を招集して選挙を行った。結果、駐日本代表部と金載華氏が支持した神戸の経済人曹圭訓氏が第7代団長に選出された。相手候補であった元心昌氏は16票差で敗北した。
深刻な対立構図のなかであっても民団は”民主主義の花”と呼ばれる選挙で葛藤を収拾した。
(つづく) |