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2016年06月15日 23:05
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大韓民国の建国史(34)
李承晩が国連の承認獲得に失敗していたら…

 南労党を中心とした左翼勢力は、李承晩政権の転覆に血眼になった。李承晩の課題は、左翼の大攻勢から大韓民国の体制を守りぬくことだった。
国家保安法の制定により韓国で共産主義が不法となった。軍内部に隠れていた少数の左翼残党の国軍離脱事件が相次いだ。米国は李政権の軍掌握力を疑い、韓国軍に新兵器を供給しなくなった。これは国軍の武装に致命的な悪影響を及ぼした。しかし、粛軍で国軍は正常化された。米軍の撤退に伴う38度線地域の防衛線強化過程で起きた南北間の軍事衝突や、北側の奇襲南侵で始まった6・25戦争でも、韓国軍は内部反乱や動揺なく体系的に戦闘に臨めた。
左翼と死闘を繰り広げる中で成し遂げた大韓民国政府の国連承認取得は、卓越した外交力を示した李承晩の外交業績の始まりだった。大韓民国が国連の承認を獲得したことは、わずか1年半後、国連が南侵した北韓を「侵略者」と規定し集団安保を発動して韓国を支援する根拠となった。韓国は国連の力で主権保全と繁栄ができた。韓国が「国連の子孫」といわれるゆえんだ。
国連が大韓民国を承認すると、米国は49年1月1日に韓国政府を公式承認し、1カ月後、駐韓米国外交代表部を大使館に昇格させ、4月にはムーチョ特使を駐韓米国大使に任命した。中国(49年1月3日)、英国(同1月8日)、フランス(同2月15日)など、1950年3月まで25カ国が大韓民国を承認、韓国は独立国として国際舞台に登場した。
国連の計画で準備され、その監視下で選挙が行われ、その結果が承認されて新生国家が発足したのは、世界史上、非常に珍しい事件だった。韓国は49年1月、国連に加入申請をしたがソ連が拒否権を行使した。これに対抗して米国も北韓の国連加盟を阻止した。
国連総会の決議を受け、国連韓国臨時委員団は「韓国委員団」(UNCOK)に名称を変えた。1949年、米軍撤収にともない、米国をはじめ友好国は、第4回国連総会でUNCOKに新たな任務を付与する決議案を採択した。韓国で軍事衝突を招く事態を監視・報告する権限と、その監視員を任命する権限を付与するものだった。
韓国政府は49年6月、国連韓国委員団があと1年間韓国で活動することと、北韓政権の攻撃を阻止するため高位国連軍顧問団が韓国に駐留するよう要請した。1950年6月25日、北韓軍が韓国を侵攻したとき、UNCOKの確認と国連への報告が、国連の即時対応を可能にした。
米国防省が在韓米軍を撤収させる方針を発表したことで、李承晩は東アジアでの反共体制構築に乗り出した。フィリピン大統領や蒋介石総統と接触したが、日本中心の勢力均衡を模索していた米国の非協力で失敗した。
李承晩大統領は毛沢東軍の中国大陸席巻を見ながら、米国へ韓国軍に新兵器の提供を促した。ムーチョは1949年5月、「残留駐韓米軍1万5000人の撤収」を正式通知した。李大統領は撤退条件として、P‐51戦闘機30機、戦闘爆撃機12機を保有する2個戦闘飛行団、爆撃機1個編隊、駆逐艦2隻、潜水艦2隻、掃海艇5隻、正規軍10万人や予備軍5万人育成とその武装を要求した。
だが、米軍が韓国軍に渡したのは小銃10万丁と弾丸などだけだった。1949年4月、韓国で国民的決起大会が起きた。韓国民は「われわれに武器を」と叫んだ。
(つづく)

2016-06-15 3面
 
大韓民国の建国史(33)
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