ベトナム戦争の拡大
朴正熙政権が当面した外交懸案の一つが、韓日国交正常化だったのだ。韓国国民の日本に対する反感のレベルは、当時も今もそう変わらない。どの政権も、日本との関係正常化をするためには、国内政治で”冒険”をしなければならなかった。朴正熙政権は、国際政治的にはやらねばならないことだが、国内政治的には大きな冒険である韓日国交正常化を断行できる政権だった。
60年代に朴正熙政権が直面していたもう一つの安保的挑戦は、拡大していたベトナム戦争だった。1963年11月のケネディ暗殺後、大統領職を承継したジョンソンも強力な反共主義者で、共産主義勢力の拡大に対してケネディ以上の強硬政策を追求した。1964年、中国が核兵器の開発に成功した後、米国はベトナムに対する軍事的介入をより拡大しようとした。60年代の米国の対アジア政策の基本は、ベトナムで「中国の膨張主義」を根源的に封鎖するというものだったからだ。
朴正熙はケネディと会談した1961年11月、ベトナムへ韓国軍の派兵を提案し、米国は1963年夏、韓国政府にベトナムへの医療支援団派遣を正式に要請した。ジョンソン政権は、ベトナムの共産化を確実に阻止できる唯一の方法は、米国の軍事介入だけだと信じるようになった。米国はベトナム軍へ顧問を派遣しはじめ、64年末にはその数は2万3000人に達した。米国は、より多くの友邦の支援を確保することが、現実的には非常に重要だった。ジョンソン政権は64年5月、韓国を含む友邦25カ国に、ベトナム戦争への支援を要請する書簡を送った。すでに派兵を心中では決めていた朴正熙は、近い将来に戦闘兵の派兵が現実となってくると考えていた。
1960年代末、朴正熙政権が直面した最大の安保不安は、北韓の軍事的蠢動と挑発だった。北韓が仕掛けた6・25韓国戦争(1950~53年)は「正規戦」だったが、北側は自らの目的だった対南赤化統一に失敗した。北韓は韓国を転覆する機会をうかがい続けており、60年代半ば以降からは、ベトナムおよび第三世界で効果的だと証明されたゲリラ戦方式で韓国を転覆しようと試みた。
1968年1月21日、訓練を受けた数十人の北韓特殊部隊が青瓦台を奇襲するために、ソウルのど真ん中にまで浸透した事件が発生した。2日後の23日午後には、北韓が元山沖で活動中だった米海軍情報収集艦プエブロ号(Pueblo)を拿捕する事件が発生。朴正熙は北韓に対する軍事報復を考えたが、ベトナム戦争が悪化していたため、米国は朴正熙を自制させようと努力した。
朴正熙は、プエブロ号事件を「1・21事態」などと連携させようとしたが、米国は密かに単独で北韓側と協商を通じて事件を解決しようとした。この過程で露わになった韓米両国の認識の差は、朴正熙に自主国防への意志をより強くさせる契機になった。1968年11月、蔚珍・三陟地域に約60人の北韓武装ゲリラが侵入するなど、北韓はベトナム戦争に鼓舞されて、韓国でもゲリラ戦を本格的に試みはじめた。蔚珍・三陟でゲリラ掃討作業の最中に、米国では共和党のニクソンが大統領に当選した。
米国歴代の誰にも劣らない反共闘士で、米国のベトナム戦争参戦を積極的に支持したニクソンは、大統領に当選した直後からベトナム戦争の早期終息を模索しはじめた。1969年、ニクソンはグアム島の近くに停泊中の空母ホーネットで、人類初の月面着陸から地球へ帰還する宇宙飛行士を出迎えた。ニクソンや米国にとっては非常に上機嫌の日だった。米国が宇宙開発競争でソ連を完全に圧倒したことを全世界に誇示する瞬間だったからだ。
その翌日の1969年7月25日、ニクソンはグアム島の将校クラブで非公式の記者懇談会を持った。ある記者が、ベトナムのように苦境に陥ったアジアの同盟国があれば、米国はどのような支援をするのかを尋ねた。ニクソンは、記者が予想しなかった答えを返した。ニクソンは、明確な口調で「アジアの国々が、われわれ(米国)にあまりにも依存して、われわれが今ベトナムで直面している、そういう戦争に再び巻き込まれるような政策は、必ず避ける」と答えたのだ。後にグアム・ドクトリン、あるいはニクソン・ドクトリンと呼ばれる、ニクソンの対アジア政策が明らかになったのだ。 |