民団の前身となる「新朝鮮建設同盟」創設
1945年8月15日の日帝の敗戦後、200万人を越える日本国内の韓国人同胞は各々忙しく動きはじめた。同胞たちは故郷を夢見て帰国船に飛び乗り、または日本に残って生活基盤を準備するなどの自己救済策を講じた。その年の10月10日、刑務所から出所した元心昌氏も帰国か日本に残るか、選択の岐路に立ったはずだ。
この時期の元心昌氏の活動状況に関しては、知られている情報はそれほど多くはない。確認されているのは出所後しばらく帰国していたが、すぐに日本に戻ったという事実である。韓国滞在時の動静は1971年の統一日報の報道でその一端を垣間見ることができる。元氏は、「一時帰国の時期、強大国の一方的な意思で私たち民族に加えた信託統治に反対して闘争」(8月18日付)をし、日本と中国で抗日運動を一緒に行った同志である朴基成氏に会い、彼の家で「1泊、夜を明かして話をして互いに、同志の安否を確認」(9月15日)した。
元心昌氏が夢に描いた「独立した祖国」に留まった期間はせいぜい2~3カ月あまり。この短い時間で、およそ13年間にわたる獄中生活で疲弊しきった心身を取り戻すには至らなかった。どれほど差し迫っていた事情があり、急いで日本行きの連絡船に飛び乗らなければならなかったことであろうか。
元心昌氏の再渡日は、在日同胞社会の情勢の変化と深いつながりがある。当時最大の同胞組織は「在日朝鮮人連盟(朝連)」。しかし発足した後、金天海のような共産主義者が組織を掌握していきながら急激に、左偏向思想団体に変わってしまう。同胞の統合と団結、思想を超えた”汎”在日同胞組織が、対立の温床の場に変わっていったのだ。
この時期、在日同胞社会を二分させた導火線は強大国の韓半島信託統治問題であった。その年の12月下旬、第2次世界大戦の戦勝国である米国、英国、ソ連の外交長官らはモスクワで会議を開き、韓半島に米ソ共同委員会を設立し「協力援助(信託統治)できる方策を作成する」(第3条項)という内容の議定書を採択する。「モスクワ三国外相会議」での韓半島関連の結論は、米・ソ両国が韓半島を支配するということであった。
この時、共産左派が勢力を伸ばしている朝連の立場は信託賛成。朝連は1946年1月16日に常任委員会を開き、信託統治案に賛成するという立場を採択した。残る中央委員会だけを通過すれば、信託賛成は朝連の最終方針となる。
しかし、元心昌氏はこれに納得することができなかった。元氏は、朝連常任委員会が開かれた4日後の1月20日に東京で朴烈氏、李康勲氏、金光男氏、曺寧柱氏らとともにが朝連に反対する団体を組織する。
ほかでもない、「新朝鮮建設同盟(建同)」である。建同の組織体系は、委員長に朴烈氏、副委員長に元心昌氏と李康勲氏、総務兼文化部長に金光男氏、外務部長に金正柱氏などで構成された。建同に先立って朝連に反対する組織が誕生、それは「朝鮮建国促進青年同盟」(建青、1945年11月16日結成)であった。建同は結成宣言のなかで、次のような設立趣旨を公表した。
「朝連の民族解放を忘却した信託統治支持の態度は心から残念だ。私たちは、どこまでも、自主、自由、祖国の完全独立のために新朝鮮の建設を目標に隣邦諸民族と協同して、ここにその先駆けになろうとする」
建同の団員は行動綱領で「真の民主主義的建国意識を涵養しよう」(第1項)、「民族の自主性を無視する信託統治に反対する」(第3項)、「在日同胞の現実的な諸問題を迅速に解決しよう」(第5項)などを明らかにした。建同と建青は神田公会堂などをまわりながら、信託統治反対の民衆大会を共同開催するなど、信託統治反対を大衆運動に拡散させるために尽力した。彼らの反信託統治の論理というのは建青の第1回中央執行委員会(1946年1月6日)の序文によく表現されている。
「私たちの目的は、朝鮮の完全な自主独立である。これを妨害するのは北緯38度を境界にした米ソの南北分割軍政であり、連合国が云々する国際信託統治である。分割軍政は、民族分裂をもたらす原因であり、信託統治は完全な自主独立の絶対的な敵である。したがって、私たちは絶対にこれに反対し、その目的を達成するために盟員が一心同体となって力強く戦うことを誓います」
以後、建同と建青のメンバーは、他の20以上の同胞団体を糾合しはじめる。翌年の1946年10月3日、これらが主軸になって、東京日比谷公会堂で結成した民族団体がまさに「在日本朝鮮居留民団」(現在の民団)である。
(つづく) |