堂々たる李承晩
李承晩は40年間、米国で亡命生活を送った。外交を通じた彼の独立運動は、米国のような比較的開放的な国でも決して容易なことではなかった。米国大統領をはじめ、与野党の指導者や国務省などの高官に会うことも難しく、李承晩は国のない国民としての冷遇を十分味わった。解放後から政府樹立、6・25戦争と停戦に至るまで、李承晩に対する米国の冷遇は酷かった。冷遇どころでなく、米国は李承晩を排除する計画を試みたこともあった。
李承晩はそのようなことに気後れする人ではなかった。不本意ながら米国に世話になり援助は受けていたが、言うべきことは言い、やるべきことはやる人物だった。李承晩の果敢な行動の例として挙げられる戦争中の反共捕虜釈放のような行動は、死を覚悟しなくてはできないことだった。李承晩の行動は無鉄砲な蛮勇ではなかった。徹底的に計算された外交と広報活動であった。彼の言葉と行動は、東洋と西洋の学問と教養を兼ね備えた当代最高の知識人としての誇りと気高さを土台にしたものだった。建国初期に李承晩のような指導者がいたことは、今日の大韓民国のために感謝すべきことだったといわねばならない。
李承晩だけでなく、当時の大韓民国の国父に該当する人々もみな勇敢で愛国的だった。国連の加盟国になれなかったため、オブザーバーの資格で国連総会を参観していた趙炳玉(大韓民国初代外務長官)を見た国連駐在ソ連大使のマリクが「そこに李承晩の犬が座っている」と叫んだ。それに対して、趙炳玉は「あそこでスターリンの犬が吠えている」と切り返した。貧しかったが弱くはなかった初期の大韓民国を導いた人々の面々である。韓国は今日そのような気概がない。おとなしくなったのかひ弱になったのか。われわれは経済的には豊かになったが、強くはなっていないのではないか。
韓国の初代大統領が国際政治を正確に理解できた人物だったことは、新生大韓民国にとって本当に幸いなことだった。李承晩は、韓国国民が博士という称号で呼ぶのを好んだ政治家だったが、李承晩は本物の博士だった。米国の名門、ジョージ・ワシントン大学で学士号を取得し、ハーバード大学で修士号を、そしてプリンストン大学で国際政治を研究して博士号を取得した人物だ。
李承晩は、その学歴はもちろん、経歴でも国際情勢の本質をよく理解していた。李承晩は、米国人が日本の本質をよく理解していないともどかしく思い、米国人を説得するため努力した。もちろん、米国社会は李承晩の警告にほとんど耳を傾けなかった。李承晩は米国人を覚醒させる一念で本を執筆した。執筆の目的が「韓国の独立」のためのものだったのはいうまでもない。
李承晩は1940年のほぼ1年間を『日本の内幕』(Japan Inside Out)という本の著述に費やした。41年初頭にニューヨークで出版されたこの本で、李承晩は「日本の政治は、軍事力による軍国主義的な支配と領土拡張という基本理念に基づいて動いているため、韓国を独立させることによってのみ、日本の野心を制御できる」と力説した。また、「米国は日本との最終対決を避けるため、経済、道徳、軍事など、あらゆる力を動員して日本に制裁を加えるべきだ」と訴えた。
李承晩は米国を、自由民主主義の信念体系を持つ国と述べ、全体主義の海で米国の自由主義が島のように浮かんでいると、当時の国際社会を描写した。一方、平和主義を前面に出しながら孤立主義を取っている米国を批判した。李承晩は「目的のいかんを問わず、戦争に反対する者はスパイのように危険だ」と、米国の平和主義者を非難した。米国は自由主義の崇高な理想を実現すべき国で、世界が米国のリーダーシップを求めているのに、米国の平和主義者がそれを妨げているという視点から指摘した。
李承晩は『日本の内幕』で、米国が間違えば日本は米国を侵略し、さらに共産化された中国は米国を脅かすと予測した。李承晩のこの予測はわずか1年(日本の真珠湾攻撃、1941年)、そして10年も経たないうち(中国の共産化、1949年)に現実になった。李承晩の国際政治的知見に驚かざるをえない。 |