1929年4月「東京留学生学友会事件」で逮捕された元心昌氏は、その年5月暴力行為容疑で懲役3カ月の刑に処される。しかし釈放されて間もない1930年6月再び逮捕される。
日本外務省の1933年3月27日付機密資料第340号には「いわゆる『黒友連盟乱入事件』で逮捕した」という表現が登場する。事件審理を引き受けた東京地方裁判所は1931年4月28日、元氏に対して勾留の執行停止を決める。予審中に保釈措置が下ろされて、彼は中野刑務所から出獄することができた。
日本当局の絶え間ない監視と繰り返される逮捕。要注意人物として烙印を押された状況から日本で無政府主義運動、抗日闘争を持続するのは現実的に限界に逢着していた。遂に元氏は日本を出る決心をする。より果敢な抗日闘争を続けようとすれば、独立運動が活発に展開されている大韓民国臨時政府がある上海に渡らざるを得ないと決意した。
その年の秋、当局の監視網を潜り抜けて日本脱出に成功。彼は中国に発つ前故郷の平澤に立ち寄って母親に別れのあいさつをした。当時の記憶を彼はこのように回顧している。
「私が最後に故郷を去った時のことは今も鮮明に記憶している。11月秋中国に向かいました。その時母親に私が『どんなことがあっても独立運動をしなければなりません』と言うと、母親は『お前がそのような難しい運動をできるのか』と話した。母親の話が終わるやいなや『平澤駅に行って一寸髪の毛を刈ってきます』と言って、その足で去ってしまった」(1971年6月19日、元心昌病床日記)
病床日記には、家を出る時長兄が知らないふりをしてくれたという告白も登場する。25歳の青年はその足で汽車に乗って平壌、北京、天津などを経由して翌年目的地の上海に到着した。彼が無事に上海まで着くには、柳子明氏をはじめ、アナーキスト同志らの協力があった。
しかし元氏の中国行きは平澤市彭城面安亭里の元氏の実家に大きな試練を与えた。日本当局の目には、彼はただの脱走犯に過ぎなかった。日本人巡査たちは、裁判審理途中に姿を消した彼を捕まえようと何回も安亭里の元氏の実家に出入りした。彼が中国に到着した後には、訪問回数がもっと頻繁になった。ある日彼の中国行きに目をつぶっていた長兄の裕学氏が警察に連れて行かれることになった。これに関して元氏の息子・亨載氏は、元家で伝えられてきた話を証言した。
「長兄の伯父さんは、元家の長男として、娘3人を抱え教員生活をしていた。ある日学校に出勤したが、その後家に帰って来なかった。日本の憲兵隊か警察に連行されて残酷な拷問を受けた。それが原因で亡くなったが、今でも死因が何なのか、どうして連行されたのか理由がわからない状態です。親戚の叔母さんや叔父さんは、独立運動をする父親の行績を自白させようと連行され拷問を受け、それが原因で長男は亡くなったと話していた」
日本の植民地時代(1910年8月29日~1945年8月14日)に支配者としての日本人の朝鮮人弾圧は、当たり前のように思われていた。元氏の実家では、長男の死因を知るために四方八方に走り回ったが、手がかりさえ探すことができなかった。
一方、上海に到着した元氏は有名無実化されていた韓人アナーキスト独立運動組織の「南華韓人青年連盟」の再建のために力を傾け始める。
(つづく) |