南韓地域で朝鮮銀行券を継続して通用させるという米軍政の決定は、ソ連軍と共産党によって徹底的に悪用された。ソ連占領地から回収した朝鮮銀行券と北韓での通貨改革で使えなくなった朝鮮銀行券が南韓に急速に流入し、物価は急騰した。ソ連当局は回収した朝鮮銀行券を、南韓内の工作と暴動支援資金としても使用した。 朝鮮銀行券は1909年11月から45年9月30日まで約36年間、86億8000万円分が発行された。その44%の38億4000万円は敗戦の日から最後の日本人総裁・田中鉄三郞が解任された9月30日までの1カ月半で発行された。 朝鮮銀行は、交通便の途絶に備え、銀行券を現地で印刷しようとした。1945年8月25日、本土から航空便で運んできた原版を使用し、朝鮮書籍印刷と近沢印刷で100円券と新たに1000円券の印刷を計画した。9月7日から100円券が発行されたが、朝鮮共産党は近沢ビルを接収し、近沢印刷にあった原版を確保して100円券を大量に偽造した。 ソ連軍は北韓に進駐し、「赤札」と呼ばれた軍票を無制限に発行した。ソ連はこれを使用して、北韓地域にあった産業設備をソ連に搬出した。ソ連占領軍は45年10月、北韓地域で日本銀行券と敗戦以降発行された朝鮮銀行券の使用を禁じた。 ソ連軍政が回収した莫大な朝鮮銀行券のその後について、詳しい記録はない。ただ、南韓での暴動支援資金をはじめ、韓国政府が朝鮮銀行券の使用を全面禁止にするまで対南経済撹乱作戦に使われたのは事実だ。 ソ連軍は1946年1月、北朝鮮中央銀行を設立した。この銀行はその年の10月に北朝鮮臨時人民委員会に移管された。47年7月には貨幣を発行し、朝鮮銀行券を回収した。 ソ連側がこのような通貨改革と経済戦争を展開しているとき、米軍政には治安維持のほかに、これといった政策がなかった。ホッジ将軍の政治参謀の役割を担っていたウィリアム・ラングドンは、この時期の米国の政策を「漂流の政策」と非難した。1947年初めまでの米国の韓半島政策は、中国の事態を観望しながら現状を維持しようとする観望政策だった。 米国務省は、戦争省と海軍省の同意を得て確定した新しい政策を46年6月6日、マッカーサー司令部に通達した。この政策の核心は、能力のある韓国人を行政に多く採用し「南朝鮮大韓民国代表民主議院」を代替する立法諮問機関を設立すること、つまり、「韓国人化政策」だった。興味深いのは、新しい政策が李承晩と金九の排除を露骨に訓令していた点だ。 「米軍司令官は、日本の支配期間に韓国内にいた指導者が選ばれることを鼓舞せねばならず、日本の降伏後に帰国した指導者たち(李承晩、金九などを指す)の自発的な政界引退をいかなる方法でも反対してはならない。最近、韓国の政治的論争で台風の目となってきたいくつかの人々が一時的に政治の舞台から引退すれば、米国とソ連当局間の合意だけでなく、南韓のさまざまな派閥間の合意も大きく促進されるだろう」 米軍政の督励によって、中道右派の金奎植と韓民党の元世勲、中道左派の呂運亨、朝鮮共産党の許憲を中心に左右合作が推進された。極左路線の朝鮮共産党指導者・朴憲永は左右合作に反対したが、平壌の金日成は朴憲永を牽制するため、呂運亨の左右合作を支持・支援した。李承晩と金九は米軍政の強力な牽制のため、合弁政局を観望するしかなかった。(続く) |