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2015年11月18日 09:34
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大韓民国の建国史(11)
李承晩を牽制した朴憲永と金九の左右合作路線

 ソ連は、米国務省内のスパイを利用して李承晩の帰国を妨害しつつ、ソ連軍大尉の金日成を帰国させて社会主義政権樹立を進めた。
 ソ連共産党が対日戦参戦直前に作成した報告書は、李承晩を「反ソ性向で有名な人物」、金九を「中国国民党の反動分子たちの影響を受け、蒋介石政府の補助金を受けている反動的人物」と評価している。ソ連外務人民委員部の第2極東局長・ジューコフが1945年8月23日に作成した「朝鮮人政治家・李承晩の特徴」という報告書は、「朝鮮人政治亡命家のうち、李承晩は最も反動的人物だ。彼は最近、一、二度ではなく、繰り返して米国に反ソビエト的な声明を提出した」と記録している。
 李承晩は帰国1週間後の1945年10月23日、朝鮮ホテルに全国65の政党団体代表200人あまりを招いた。李承晩は政治勢力を一つに束ねるため、朝鮮独立促成中央協議会(以下、独促中協)を発足させ、会長に推戴された。李承晩は思想の差、感情的対立を超えて一つに団結することを訴えた。
 しかし、共産党の朴憲永が李承晩の路線に反旗を翻した。朴憲永は10月30日、「無条件に団結するわけにはいかない。朝鮮にはいまだ日帝の残滓勢力が残っている。この親日派を根絶させた後、玉石を完全に区別してから純粋な愛国者と進歩的民主主義的要素だけで団結し、統一しなければならない」と、李承晩の大同団結路線と一線を画した。李承晩は11月7日のラジオ放送で共産党から与えられた主席職を辞退すると宣言し、共産党との関係を絶った。
 金九をはじめとする大韓民国臨時政府の要人第1陣6人は1945年11月23日、米軍政が用意した輸送機で帰国した。金九は西大門にあった鉱業家の崔昌学の邸宅を居所にした。
 臨時政府は1921年頃に分裂し、多くの曲折を経た。解放後、臨時政府の閣僚として帰国した人士のほとんどは臨時政府の枠外で独立運動するか、生計を維持した。終始、臨時政府を維持してきた人物は金九だった。
 解放後、韓国で活動した臨時政府出身の要人は28人いた。一方、北韓政権に参加した人は金元鳳、成周寔、孫斗煥、朴健雄の4人で、大韓民国の建国に強硬に反対した人は金九、趙琬九、厳恒燮の3人だった。
 李承晩と金九をよく知る独立運動家の朴容萬は、二人の関係についてこう回顧している。
 「李博士は金九先生をいつも『弟さん』と呼び、金主席が博士をいつも『兄さん』と呼んでいた。二人の友誼は厚く、兄弟の義を結んでいた。李博士と金九先生は帰国後しばらくの間は、あらゆることで同心一体のように動いてきた。ところが、李博士と金九先生は政治の姿勢がまったく違った。李博士は、これから来る政局と国外情勢を鋭く注視しながら、臨機応変の政略を立てて縦横無尽の政治をしようとしたのに対し、金九先生は剛直な信念の下、愛国愛族の心一辺倒でただ推し進めていく方だった」
 金九と臨時政府側は独促中協に参加を求める李承晩の要請に対して「臨時政府の左右合作の基本政策に違背する」と拒否した。「大同団結、自主独立」というスローガンの下、左・右・中道政治勢力を統一組織に束ねようとした李承晩の努力は、朴憲永と金九の拒否で出足から揺らいだ。金九と臨時政府は左翼勢力と接触して「左右合作」という向かい火を放った。左右合作を通じて李承晩と韓民党を孤立させ、自分たちが政局の主導権を握るためだった。(続く)

2015-11-18 3面
 
大韓民国の建国史(10)
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