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2015年11月05日 10:05
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戦後70年 在日の肖像(9)
W杯共催がまいた交流の種

 きっかけは、ひょんなことだった。国際サッカー連盟が1996年5月、2002年のワールドカップ(W杯)を韓国と日本の共催にすると決めた。当時、在日本大韓体育会の会長だった金英宰さんは、ある新聞社からの電話取材を受けた。
 インタビューの中で、在日韓国人が韓国と日本の架け橋の役割を果たすと説明した。そのとき、共同応援団を作る案が浮かんだ。当時は98年のフランス大会が控えていた。韓国と日本はともにW杯進出を決め、共同応援団のフランス行きも決まった。
 フランスでは韓国ベルギー戦と日本ジャマイカ戦を観戦した。日本人約50人も含め、一行は100人を超えた。パリのスタジアムは満員だった。金さんはサッカーには関心が高く、スタジアムでの観戦は数え切れないほどあった。それでも日本人が韓国人と一緒に韓国を応援するのは初めて見たという。「ただ感動しましたよ」この体験が4年後につながる。
 韓国ベルギー戦の翌日、リヨンに移って日本の試合を観戦した。今もW杯では韓日共同応援を行っている権東品さんは、その日の光景を忘れられないという。
 「日本が劣勢に立たされたとき、韓国のサポーターが日本のサポーターから太鼓を借りて『ニッポン』コールを始めたのです。試合は負けてしまいましたが、試合後に泣いている日本人のサポーターを励ましている姿は目に焼き付いています」
 迎えた2002年、韓日共同応援団はKJクラブと名を変え、共同応援を行った。金さんは「両国がベスト16に進んでくれればそれでいい」と考えて韓国に入った。チケットはグループステージの3試合分手配した。
 ところが韓国は破竹の連勝。決勝トーナメントを勝ち上がっていった。「KJクラブならチケットが入るらしい」と、どこかで聞きつけたサポーターが金さんのもとにやってきた。金さんは韓国サッカー協会に掛け合ってチケットを入手。協会も快く応じてくれた。
 しかしそれにも限りがあった。金さんは不足したチケットをどうにかかき集め、移動と宿泊を兼ねたバスを3台チャーターした。すべて個人負担だった。
 一方の権さんは、東京にいた。前年にBSE問題が起き、経営する焼き肉店を休めなかった。応援団長の辞退も考えたが、それでも何とか日本ロシア戦、韓国ポルトガル戦は観戦した。
 「最低限の役割はこなせたかな」と思った矢先の快進撃。準決勝の韓国‐ドイツ戦のチケットを入手できる機会に恵まれた。行こうか悩んだが、従業員に背中を押された。共同応援団の赤と青のTシャツを着て応援したが、韓国は敗れた。
 2002年6月30日、横浜。権さんは初めて韓国代表カラーの赤いTシャツを着て決勝を観戦した。
 W杯共催をきっかけに、多くの在日韓国人が両国のきずなが深まるのを感じた。ある古老は「今でも付き合いのある日本の友人ができた。こんな日が来るとは思ってもみなかった」と当時を振り返る。
 W杯からほどなくして「韓流ブーム」がやってきた。両国を往来する人も増えた。W杯でまかれた種は、今も花を咲かせ、また、いつかどこかで花咲く日を待っている。  (溝口恭平)
      (連載おわり)

2015-11-05 4面
 
戦後70年 在日の肖像(8)
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