韓半島に住んでいたほとんどの韓国人にとって、日本の敗亡はあまりにも急な出来事だった。日本の降伏意思は8月11日に米国に伝えられたが、ほとんどの日本人にも敗戦は突然のことだった。韓半島では韓国人も日本人も、敗戦に対する準備はほとんどできていなかった。
辞典は植民地を「ある国からの移住者によって開発・形成された地域。ある国の経済的・軍事的侵略によって支配され、政治的・経済的に従属させられた地域」と記述する。
日本の韓半島支配は、辞典の説明どおりだった。日本は自らが欧米先進国から導入した文物、つまり近代化した日本の法と制度と文化を韓半島に移植した。日本は韓半島の永久支配を目標として、日本と同じ法と制度を移植した。韓半島を一つの市場に統合し、徹底した同化政策を推進した。
植民地朝鮮の主要な会社の資本金の約80%が日本人所有で、技術者の約81%が日本人だった。植民地建設の結果として北韓地域には製鉄、製錬、電気、化学などの巨大工場が建設された。北韓地域の1人あたりの鉄道の長さや発電量は日本を凌駕する水準だった。
日本の敗戦後、北韓地域の工場や設備は、ソ連が一部を戦利品として持って行ったが、すべては社会主義政権に接収された。よく、1960年代までは北が南よりも進んでいたというが、これは植民地の遺産が多かったからだ。
南の経済は、農業と一部の軽工業が中心だった。南は主にコメを日本に輸出し、その輸出代金で日本から必要なものを買ってくる経済構造だった。南が成長したのは、日本と強く繋がった経済構造のためだった。韓国には経済の自給基盤が存在しなかった。北韓に比べて植民地の物質的インフラは貧弱だった。
植民地朝鮮の経済は、完全に日本経済の一部に編入された。植民地朝鮮は輸出の約74%、輸入の約89%を日本に依存していたといわれる。日本が太平洋戦争末期に、すべての経済構造を戦時経済体制に転換したことで、韓半島も戦時経済体制に変わった。
このような状況で日本が敗亡した。日本人は、自分たちが所有していたほとんどの資産を残して帰らねばならなかった。植民地から離れる日本人が持ち帰ることができたのは、自分たちの知識と経験と記憶くらいだった。
一方、一朝にして日本経済から切り離された韓半島では、日本からの原材料の供給が中断し、技術者たちが撤収したことなどで、工場の稼動が止まった。物資は品薄状態で、物価は急騰し始めた。
北韓を占領したソ連軍は、北緯38度線を閉鎖した。平壌のソ連軍政庁は南との人的往来、物的交流、そして通信を遮断した。8月24日に京元線を、8月25日には京義線の運行も止めた。満州から北韓を経て日本に帰国しようとした日本人も、38度線で阻まれた。
ソ連軍司令部は、9月14日、「人民政府樹立」要綱を発表した。南北韓の連携・統合の可能性は消えた。植民地統治期間を通じて当初から自立不可能な奇形的構造だった韓国経済は、瀕死の状況に陥るしかなかった。
物資の不足が深刻だった南をさらに苦しくしたのは、人口の急激な増加だった。海外からの帰還同胞や北韓からの数多くの越南者たちで、南の人口は3年間で120万人ほど増加した。
北緯38度線は、南韓をアジア大陸から分離した。韓国は有史以来、初めて”島国”になった。
(つづく) |