張真晟(脱北詩人、「私の娘を100ウォンで売ります」の作家)
今月で韓国入国脱北者が2万4千人を超えた。南韓ではまだ少ないと思うかも知れないが、北韓の立場からは途方もない規模だ。その理由は北韓(金正恩)の「3代滅族」指示通りだと2万4千人の親戚や縁故者が北韓内に数十万、数百万に達するためだ。
最近伝わる話によれば、国家保衛部は北韓に残っている脱北者の家族を不純階層に分類して内陸奥地へ追放し、二重三重の監視をしているという。ところが、その原則から見れば、金正日と金正恩も厳然たる脱北者の家族だ。
金氏一族の脱北史は金正恩の曽祖父の金亨稷から始まったと言える。金日成が生まれた1912年当時平壌近郊で漢方医だった金亨稷は治療名目で阿片商売をした。日本警察も当初は患者治療のための少量の取引だと放置したが、次第に量が大きくなるや金亨稷を阿片密売要視察人物と分類するようになる。
金亨稷が何度も監獄に入れられたのも、北の教科書は独立運動のためだと記述するが実は阿片事犯として逮捕されたのだ。遂に金亨稷は故郷や一家を残して中国に慌てて逃げなければならなくなり、その過程で病気に罹り異国の地で客死する。(*左は金亨稷偶像化資料)
金日成も14才の時北韓を脱出して20年後にロシア軍艦に乗って平壌に戻った。北韓は金日成が鴨緑江を越えた14才の時を抗日英雄の出発と宣伝している。ところで、いくら日帝が憎く、全国民に独立の熱望が燃えた抵抗の時代と言っても14才の幼い子を無責任に一人で異国に送る両親はいないはずだ。
その訳に対して北韓内ではこういう証言もある。金日成が近所の子供たちと喧嘩をして相手を障害児にしたため警察に呼び出されるや、金亨稷一家は長男の金日成を逃避させるため国境を越えて遠くへ送ったということだ。その時金日成が平壌から鴨緑江まで歩いて行った「亡命」の千里の道を北韓は「光復の千里の道」と神格化し、毎年全国の大学生にその路程を体験するように強要している。
金亨稷や金日成の場合は植民地時代に避けられない選択だったと理解することにしよう。しかし、金正日は脱北連座制を作った当事者として欺瞞の責任が大きい。
まず、金正日は出生地から尋常でない。彼の出生地はシベリアのツンドラ地域であるアムール川流域の村落ワツコに(別名ブアツク)付近の山奥のみすぼらしい兵舎だった。外国生まれの北韓の指導者は、自分の神格化教科書の中で故郷や親戚ら、甚だしくは妻が脱北者である事実まで隠している。
金正日の妻の成蕙琳の姉である成蕙琅は、1996年亡命して金正日王朝の実体を暴露する「藤の木の家」という本(*右写真)を出した。一緒に脱北した成蕙琅の息子の李韓永は、金正日の妻の甥としてそばで見た金氏独裁を暴露した「金正日・ロイヤルファミリー」という本(*左写真)を出し、そのために暗殺された。
以後、成蕙琳もロシアで治療中2002年5月死亡したが、成蕙琳は遺骨でも平壌には戻らないという遺書を残した。憤怒した金正日は妻の葬儀に弔花も送らなかった。金正日の長男である金正男はマカオなどを転々しながら日本人記者とのインタビューで、「朝鮮民主主義人民共和国」を「北韓」と呼びながら3代世襲を非難した。
金正恩も同じだ。まず、金正恩の母の高英姫は在日同胞出身だが、北韓が宣伝する金氏一家の血統史には日本という単語すら言及されていない。それだけでない。金正恩の叔母である高英姫の妹の高英淑も2001年10月スイスを経て米国に亡命した。高英淑は現在米国の保護を受けており、外部との接触は一切無い。
金正日と金正恩はこのように自らが韓国や米国、第3国へ亡命した脱北者の家族だ。北韓式用語では「背信者の家族」、「脱北者の家族」であり、しかもその地位から見て誰よりも最優先の粛清対象であるわけだ。
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