閔庚菊(江原大学教授、経済貿易学部)
[要約]大学教育を社会的基本権にして社会主義へもう一歩踏み出すことだ。わが憲法の根本価値に正面から逆らうものだ。授業料は政府でなく市場が決めるべき事項だ。政府がやるべきことは、大学間の競争が活発になるよう競争秩序を確立することだ。
無償給食、無償医療、無償保育など無償福祉をシリーズで競争するのかと思ったら、今は大学授業料半減の論争で政界が熱い。その核心は、教育の需要者に授業料の半額を奨学金の形態で政府が補助するか、あるいは政府が大学への財政支援を通じて授業料を半分に減らせということだ。
大学教育が社会的基本権なのか
授業料の半減は、所得と関係のない普遍的福祉だ。大学教育を「社会的基本権(social basic right)」にするということだ。誰でも望めば大学教育を受ける権利があり、国家はその権利を履行する義務を負う社会主義へ移行しようとすることだ。
大学教育を社会的基本権にして駄目になった例がフィンランドの福祉国家ではなかったのか。津々浦々の小さな都市にもいくつずつの大学を作り、毎年数千人の人々が学位のために大学に入った。教育のレベルは落ち、学歴インフレだけを引き起こした。それで大工、配管工、機械工など本当に価値のあるサービスを提供する技能工は慢性的に不足した反面、労働市場で全く役に立たない学士、修士は溢れ、博士の失業者も日常だ。
われわれが授業料半減を深刻に憂慮する理由がそのためだ。
授業料半減は、責任の原則という憲法的価値を毀損
「半額」が、自由と責任という尊い憲法的価値を毀損するのも深刻に憂慮すべきことだ。学生と父兄が大学教育は自ら選択し、教育費用は納税者らに転嫁させるからだ。食事は私が食べて食事代は他人が払うか、治療は私が受けて治療費は第三者が支払うのと同じだ。 興味深いのはその結果だ。
授業料が半分に減ったから、大学への進学率は高くなり、労働市場には役に立たない高学歴のバブルと、有用な技能工の慢性的不足という結果は、火を見るように明らかだ。費用が安いから需要者の教育選択も慎重でなく、授業料が安いから熱心に勉強すべしという負担感も減る。大学生としての責務を全うするのにお金がかからないから、万年大学生の不恰好を見る日も遠くない。
授業料半額で万歳を叫び喜ぶ所は淘汰されて当然の不良大学だ。政府の支援のため大学らの自救努力は弱くなる反面、強化されるのは政府への依存心だけだ。支援が増えれば政府の規制と干渉も酷くなる筈だ。大学の自律化は遠ざかり大学間の競争は消える一方、大学に干渉する官僚たちは出番が多くなって運が開けるだろう。活力を失った大学に、腕章を付けて威張る官僚が頭を擡げる構造では競争力云々は贅沢な話だ。
半額授業料は不道徳の極致
政府を支援するのための納税者の負担も問題だ。高卒の労働者らの税金が、金持ちの子供の教育費用の調達のため利用される。貧しい階層から富裕層へ所得が移転される典型的な制度が半額授業料のための納税だ。
子供のない納税者らも、他人の子供の大学教育のために犠牲になる。ソウルのCEOや富裕層の子供の大学教育のため、老いた農漁民の税金を動員する。「半額授業料」制度は不道徳の極致であるしかない。
政府がなすべきことは、大学の競争秩序の確立
高い授業料のため学生と父兄が苦しいと言って授業料を問題視するのは決して正しい方法でない。授業料は政府が介入すべきことでなく、教育市場が決めるべき問題だ。
政府がなすべきことは、大学間の自由な競争秩序を確立することだ。競争は、多様な財源を確保して低い授業料で質の良い教育を供給するように大学らを誘導する非常に効果的な社会的メカニズムであることは歴史的に、そして理論的に立証された。
残念ながら、わが国の大学教育には競争秩序がない。大学の設立、運営、入試選抜、編入学などすべての領域への政府の規制が幾重にも重なっている。政府の管理下の大学運営は、大学の競争力を無くすことになっている。アメリカの大学は成功し続け、ヨーロッパの大学は停滞している事実がこれを立証する。
したがって、政府がなすべきことは、規制を解き競争を制限する要因を除去して、自由な競争秩序を確立することだ。自由な収益事業も可能にし、寄与入学(寄附入学)も許容し、大学の淘汰も容易になるように規制を解除せねばならない。
貧しい大学生たちのためにも大学の競争力のためにも、大学の競争秩序は必ず必要だ。「半額授業料(授業料半減)」は、とんでもない道に逸れる陥穽だ。
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