趙甲済
イギリスの著述家のトーマス・カーライルは、「英雄崇拝論」で、「如何なる人物も彼の下人には英雄でない」というフランスの諺を批判する。
<仮に、そうだとすれば、問題は英雄でなく下人にある。彼の精神が奴隷の精神であるためだ。下人は、真裸のルイ14世を見ても英雄と分からないはずだ。下人が英雄を見て分かるためには、彼は一種の英雄にならねばならない。>
最も偉大な英雄でありながら韓国人から冷遇される代表的な人物が金庾信将軍(*右の銅像)と李承晩大統領だ。一人は最初の民族統一国家を創り、もう一人の方はその延長線の上で最初の国民国家を創った。韓民族2000年の歴史上最も大きい人物だ。
この二人よりはるかに小さい人々に関する伝記や銅像は多いが、二人に対する評価は非常に低い。その理由は、二人の英雄にあるのではなく、「奴隷の精神」、すなわち奴隷の根性を持った人々にあるというのがカーライルの説明だ。
ある国民のレベルが分かるためには、彼らがどういう人を賛えるのか、または、どういう人を賛えないのかを見れば分かるという。李承晩建国大統領(*左写真)に一坪の土地、銅像一つ、街路の名前一つも与えない韓国人だ。韓国人たちが英雄を見ても分からない理由は「永遠の下人」であるためなのか?
カーライルは、資本主義と民主主義が満開した19世紀の英国知性界を代表する人物だったが、英雄的人間とその英雄への服従の重要性を力説した。
<支配し服従することよりもっと道徳性を持つものもありません。正当でないのに服従を要求する人に災難があるはずで、正当なのに服従を拒否する人にも災難があるはずです。>
彼は英雄が判らない人々やそういう社会を慨嘆した。
<誠実な人だけが誠実さが判ります。英雄があるだけで十分なわけではなく、英雄に適合した世上がなければなりません。奴隷たちのものでない世の中のことです。そうでないと英雄が現れてもどうしようもありません。クロムウェルのような人物が現れても、150年間われわれから一票も得られませんでした。不信の世上はそもそも詐欺師の所有物です。われわれが投票箱を持ってやることは、ただわれわれの詐欺師の「形相」を変えるのみ、その本質はいつもそのままです。>(ハンギル社出版、朴相益翻訳の「英雄崇拝論」から抜粋)
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