柳根一(ニューデーリ顧問) 「韓国大学生フォーラム」のビジョン宣布式(2010年9月8日、プレスセンター、右写真)は、絶滅した恐竜が蘇ってきたような驚異感と感慨を与えるに充分だった。彼らの代表のビョン・ゾングクック学生はconserve(大韓民国守護)とcomplete(大韓民国の完成)を前面に標榜した。李承晩大統領の大韓民国建国を輝く出発点と評価する件もあった。 われわれの韓国にも自分たちの愛情とロイヤリティー(loyalty)を大韓民国の憲法精神、建国精神、大韓民国の成功した歴史に捧げる青年学生たちがいるんだなという感激、そしてその清新な力量が組織化を通じて談論闘争、文化運動、感性運動、イッシュ・ファイティングを誓っているんだなという感動は真に久しぶりに味わう嬉しさである。 反大韓民国の陣営に対抗してきた既成の大韓民国守護勢力は、このようにして彼らが待ちに待った「新しい血」と新しい実戦部隊を見て喜ぶだけだ。老年、壮年、青年が各自の位置でなすべきことをやらねばならない。 一部の自由民主の大学生たちが左翼が用意した土俵に上がって、左派が設定した枠の中に入って談論を行うケースがたまにある。例えば、「保守か進歩か」の陥穽がそれだ。君は保守かと訊かれれば、保守でありながらも保守だと言うのがなんとなくまずい時があるようだ。そういう時、一部はよく「私は中道だ」、「極左でも極右でもない」と答えたりする。こういう守勢的、逃避的「窮地に追い込まれること」そのものが、すでに左翼の枠に引っ掛ったことを意味する。 一体なぜ、悪意的かつ操作的な左翼の土俵の上に初めから引込まれるのかということだ。言葉のゲーム場そのものを自由民主の学生たちが別途に先に作って、そこへ左翼を引き込んで彼らが困るようにせねばならない。それで自由民主学生たちは丈夫な理論の枠を作らねばならない。左翼が「韓国の言論の自由は後退した」、「李明博時代に民主主義が後退した」と攻撃してくる戸、「私はどちらでもない」と言い、算術平均的な「中間」に曖昧な姿に座ってはならないということだ。それは「李明博流の中途」のブランドだ。 青年学生たちは、大韓民国の建国-憲法-62年史の輝く成就物を護るという保守的価値、そういう保守的価値を破壊しようとする勢力に対する透徹した対峙、そして大韓民国の停滞でなく未来の発展を創り出すという意味の進歩的価値も先取せねばならない。その「真の進歩」のエネルギーを自由の精神において演繹せねばならない。自由こそが真の進歩の前提条件でなければならない。自由を退出させた「偽りの進歩」、失敗した「似非進歩」こそ、盧武鉉の言葉通り鞘に入れて博物館に送らねばならない。 現実的には、大韓民国の憲法秩序に反対する勢力を、合法の枠の外へ退出させるのが急務だ。そのため、いわゆる自称「進歩」に訊かねばならない。「大韓民国の憲法秩序を真に認めてその中に入ってくるか拒否するか?」の二者択一を要求せねばならない。それで拒む者らに対しては一線を画して、不法勢力として峻厳に対処せねばならない。これを先頭で喚起させる運動が青年戦士らの役割だろう。 いつからか、反大韓民国勢力に巻きこまれない学生たちが、すべて消えたと諦めるしかなかった時があった。今彼ら韓国版ユリシーズが長い求道の巡礼を終えてまたわれわれのそばに蘇っている。 祭りでも開いて共に祝いたい事件だ。韓国大学生フォーラムよ、ファイト! |