伊吹と飲んだつぎの日は、祥一はほとんど自分の部屋にこもっていた。
朝食は、いつものようにトーストとコーヒーで済ませた。遅い昼食として、近くのラーメン屋でラーメンを食べた。ラーメン屋だったら、アパートから歩いて五分たらずのところにあるのである。近い代わりに、狭くて、汚ならしい店で、味もひどくまずい。駅の近くの河野屋まで行くのがよほど面倒なときだけ、たまにそこに寄る。
遅い夕食も、ラーメン屋より少し先にある洗湯に行った帰りに、やはりそのラーメン屋でチャーハンを食べた。
午後二時すぎ、遅い昼食を済ませてアパートに戻ったとき、トイレから出てきた伊吹とばったり顔が合った。
「やあ」
と伊吹は笑いもせずにいった。
「やあ」
と祥一も応えた。
「いま起きたところかい」
「うん、明け方まで本を読んでいたもんだから」
昨夜のことはすっかり忘れているような表情だった。
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「いまそこのラーメン屋でラーメンを食ってきたところだ。駅まで出るのが面倒臭いもんだからね」
祥一がいうと、伊吹は無言のままちょっと笑いを浮かべ、自分の部屋に入って行った。
祥一の部屋の、机のすぐ斜向かいの窓先に栗の木が立っている。枝が窓ガラスのすぐ近くにまで伸びていて、少し風が吹いただけで、枝が窓ガラスに触れる。今日は、風はほとんどなく、葉が雨に打たれるたびに微かに上下に揺れている。時折本から目を離しては、祥一はぼんやり栗の葉を眺めた。
読んでいるのは、相変わらず小説である。このところ、彼は、もっぱら第一次戦後派作家の作品を読んでいる。野間宏の『暗い絵』、椎名麟三の『深夜の酒宴』、武田泰淳の『蝮のすえ』などは殊に面白かった。いまは大岡昇平の『野火』を読んでいるが、これも面白い。文章に格調の高さを感じた。
文学にまったく関心のなかった祥一が、にわかに小説を読み出したのは、去年の秋からである。ほんのちょっとしたきっかけで、彼は水を得た魚のように小説を読み出した。
あれは、去年の九月下旬の、一週間ばかりにわたって行われた期末試験が終った日だった。最終日の試験は統計学の一課目だけで、十時半に彼たちは憂鬱な試験から解放された。
試験が終ると同時に、同級生のある者は、
「ほいほい」
などと奇声をあげ、何人かと誘い合せて早速麻雀屋に出かけて行った。
期末試験が終ったというのに、なぜか祥一の心はいっこうに弾まなかった。試験のための気のない勉強に、気を張り詰めてきた反動のせいだろうか。彼は、何か、エアポケットにでも落ち込んだかのように、ひどく空虚な心持だった。
彼には、友人らしい友人がひとりもいなかった。誰か友人でもいれば、これから一緒にどこかの喫茶店に行くなり、映画でも観に行くところだが、そうした相手もいなければ、そうした気分にもなれなかった。
洋子に逢いたいと思ったが、洋子はその日京都に出張中だった。洋子の勤めているN化粧品会社は、本社は渋谷だが、化粧の仕方を教えるサービスルームというのが池袋にあった。洋子はそちらの方で仕事をしていて、月に二、三回は、地方の美容院などに出張するのである。
1984年8月10日4面掲載 |