柳根一(言論人)
李明博大統領が突然「中道を強化しなければならない」と言った。世論調査で李会昌総裁よりも 李明博大統領がもっと右の方にあるというふうに出たため、「中道」にイメージ矯正するということだ。
左翼はいつも反対派を「極右」と歪曲して罵倒する。解放空間で左翼は李承晩や金九を極右ファッショ・売国奴・民族反逆者と罵倒した。これは左翼の常套的で非常に有効な烙印手法だ。そうすれば、右翼は不道徳で反民主的な「虞犯者」と烙印され、一部の心弱い人々は「私たちは右派でない中道だ」というふうにぎくりとし尻尾を巻くようになる。李明博大統領がこのお決まりの「烙印恐怖戦術」に間違いなくひっかかった格好だ。「私が右派? とんでもない、私は中道や、頼むから私をそう見ないでくれ。」
「中道」とは孔子の中庸、仏様の中道行、50~60年代のネル、ナッセル、スカルノなどの第3世界のリーダーたちの非同盟路線、社会民主主義の哲学的位相...などの色々な姿をもって現れていた。韓国の政治史では主に左右合作路線の形で現れていた。
これとは別に、韓国の現実政治ではハンナラ党でもなくて民主党-左派勢力でもない、無党派浮動層、何事もこれとあれ(不法デモ隊と公権力のようなものまでも)の中間を取る、機械的、没価値的中間論者、何事も二股をかけて日和見主義的に行き来するカメレオン主義者、こちらからもあちらからも叩かれるまいという技術的なふるまい、左派の鋭鋒を避けてみようとする「迂回作戦」などの色々な姿でしばしば登場したりした。これは高邁な哲学的重用論とは異なる、そのような高い級に及ばない、一種の言語の戯れと言える。
われわれは、李明博大統領が韓国政治史の中で果たしてどのような「中道」として生きてきたのかよくわからない。李明博大統領が中道なら、彼が現代という大企業で勤めた時、果たしてどのように「中道財閥」を実践したのか、維新時代には権威主義権力に対抗して果たしてどのような「中道(順応主義的だったのか、一部の「中道統合論」だったのか、「民主回復」路線だったのか)」を実践したのか、開発独裁時代の高度成長期に、それとは違った「中道的」な発展戦略を彼が果たしてどのような形で提示したことがあったのか-世人はまったく知るところがない。と言って、彼がネルやナッセル、ヨーロッパの社会民主主義者の理念的・哲学的中道の世界観を実践したという記録もない。それでは、李明博大統領の「中道」とは果たして何なのか?
彼の「中道」とは、恐らく現在の汎左派-民主党、民主労働党、民労総、全教組、左派統一運動団体、各種の左派市民団体、「ロウソク」追慕勢力、街闘勢力に対して、「私を敵と看做さないでくれ、私はあなた方に対して正面から立向かうあの右派陣営とは違う、『私なりの穏健進歩』だ」ということを訴える意味の「中道」のようだ。
それでは将来はどうなるのか? 第一--彼はそうしても、もっと左派の機嫌を取るのもできないだろう。第二、彼は彼を声援し、票をくれた右派陣営からの決定的な離反を覚悟せねばならないだろう。
生涯、資本主義経済のブルドーザーCEOとして生きてきて、右翼陣営の票で左派陣営を敗退させた、李明博大統領を、彼が「中道」でなくそれよりすぐるものを掲げるとしても、彼を呪ってきた左派が、「あ、そうか?」と、「中道の李明博」を直ちに「帰ってきた蕩児」と認めてくれるはずは、本当に本当にない。右派も「一生懸命票を集めてあげたら、あんな恩知らずが他にいるのか?」と愛想を尽かしたはずだ。
結局、李明博大統領は、理念や社会科学に対してよく分かるはずもないのに、しきりに左だの、右だの、中道だのという生齧りの概念らを使って、何の所得もなくむしろ損をするようだ。
韓国現代史の61年史の熾烈を極めた理念闘争史は、誰かが逃げたいと思って逃れられたものでない、絶体絶命の宿命的な束縛だった。例えば、金日成のタンクが押し寄せてくるのに、そこに何の脱出口のような「中道」があり得たのか? 今国立墓地に眠っている戦没将兵らが、李明博大統領より物事が分からず、そのように非中道的に生き、非中道的に殉国したと思うのか? 李明博大統領はあたかも自らその歴史の外に出られるかのように、われわれの波瀾万丈の悲劇的な現代史を、「他人たちの同じ極端主義の戦い」のように見ている。金日成のタンク(戦車)は極端主義だったが、それにやられ対応した、われわれの生存権守護は極端主義でなかった。
こう問いながらも、李明博大統領の「中道」云々が何なのか、いくら見てもその正体とコンテンツが分からない。ただ、一つの用語の技術として、左派を宥めるための政治的修辞学程度でないかと思う。結果は、左も右も、李明博大統領を見くびる、彼の孤立無援として現れそうだ。
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