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2009年05月31日 00:00
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朴正熙 逝去30周年記念連載⑪ ― 38度線の春
「サカナ」事件、その真相とは?
 
 
連載11 「酒と肴と・・・」
 

 

 金鍾甲(陸軍中尉予備)は3ヶ月間、9師団長として朴正熙参謀長と業務を共にしていた。彼は「師団の運営は参謀長に一任し、私は作戦面だけを集中して担当していた」と証言している。

 
 
 「人員の補充や軍用品の補給など、日常的な業務を丁寧かつ正直に処理してくれたので、心おきなく業務を遂行することができました。本当は、作戦についても私よりずっと多くを知っていたのです。師団の司令部は動きが激しく、作戦地域も広くて険しかったので、指揮をとるには困難な点が多いほうでした。師団長は大隊長の顔すら知らなかったため、将校たちを集めて訓示を行う機会もありませんでした。予備連隊を設置する余裕もなく、訓練と教育が十分に行き渡らなかったため、戦闘では大変多くの新兵たちを失いました」
 
 

 1951年冬の江原道山岳戦で、朴正熙参謀長は実弾の供給はもとより、握り飯の配給に神経を使った。後方部隊が作った握り飯を一線の私兵たちに運んでやったりしていた。運ぶ間に握り飯が氷のかたまりになっていたこともあった。握り飯と実弾輸送を担当した労務者たちはさらに悲惨な状態だった。一線の師団には、こうした労務者らが2000人ずつ駆り出されていた。彼らは25歳~40歳位で、既婚者が多かった。彼らは、1年間という期限で徴収されたにもかかわらず、人員の確保が不十分であることを理由に、期限を過ぎても働かされた人が多かった。

 

 当時、金鍾甲率いる9師団では、大規模な接線がなかった日でも、人民軍の砲撃と奇襲だけで1日平均30人ほどが戦死した。ある日、作戦参謀が「2人しか死ななかった」と報告をした傍ら「今日は良い日だったので会食をさせてください」と言ってきた。金鍾甲准将は朴正熙参謀長を呼び、準備をするよう指示した。すると、朴正熙は改まってこう言った。

 

 「1人も死ななかったというのならまだしも、『2人しか死ななかったことを祝おう』というのは反対です。その2人の両親は、おそらく大統領の死よりも嘆き悲しんでいるはずです」

 
 
 金鍾甲師団長は瞬間的に「反対だとは生意気な」と思った。しかし、朴正熙が大統領に就任した後、突然その言葉を思い出したという。
 

1951年3月3日付で、新しい師団長として李ソンガ准将が赴任した。彼は1950年11月末、平壌北方の西部前線で8師団長を務めていた頃、中共軍の奇襲攻撃に遭い、師団を失った。この失態が軍法会議に掛けられた結果、彼は赦免され、師団長に復帰したのだ。9師団は3月6日付で3軍団から1軍団の所属に変更された。李ソンガ師団長は、赴任するなり、旌善郡松界里の松界国民学校におかれていた師団司令部に対し「『歩く空挺部隊』、人民軍10師団をよう撃せよ」との命令を下した。

 
 

 人民軍10師団は3ヶ月前、国軍9師団に正面攻撃を仕掛け、UN軍(国際連合軍)の補給用道路を襲撃するなどのゲリラ戦術を駆使した。また、国軍2師団の執拗な襲撃を受けながらも約2000人の残存兵力を連れて太白山脈を越え、帰還の途についた。9師団の29、30連隊とトンネル師団の1大隊は3月14日、江陵の南方約50kmの山岳部で待ち伏せし、北上する人民軍10師団を攻撃した。9師団はその後10日間、大関嶺、五臺山、発旺山一帯の山岳地帯で「ネズミ捕り作戦」を繰り広げた。昼夜問わず続いた山岳戦では、車輌や重火器などはこれといって何の助けにもならなかった。連隊長も、ただひたすら走らなければならなかった。(30連隊長、ソン・ヒソンの証言)

 

 
 人民軍10師団は、逃避と脱出だけを繰り返したわけではなかった。国軍の拠点を確認すると奇襲を実行した。10師団は大きな打撃を受け、指揮層と1部の兵力のみが五臺山を越え、人民軍の基地に帰還できた。「9師団史」には、「松界里戦」で名を挙げたこの戦いで、9師団の兵力のうち115人が戦死し、77人が失踪、264人が負傷したと記録されている。2188人の敵兵を射殺したとの記録もあるが、これは若干過大表現であると思われる。敵の捕虜612人、迫撃砲が2台と小銃約900丁、機関銃30丁、という鹵獲状況は正確だろう。人民軍10師団を浸透させてしまった9師団は、結者解之(結んだ者がそれを解く=自分の行いは自分で責任を取る)ともいえる痛快な復讐を果たしたのだ。
 

 

 ネズミ捕り式の掃討作戦を実行している間、朴正熙参謀長は雪に覆われた山中で奮闘した部隊兵らに弾薬と握り飯を差し入れようとしていた。捕らえた捕虜たちを調査したところ、南韓地域から人民軍に連れて来られた学生と女が多かった。人民軍が国連軍に襲撃され、退散すると同時に北へ同行させた者たちだった。この松界里戦は、創設されてからわずか5ヶ月の9師団に自信を与えた。部隊を訪問したチョン・イルグォン総参謀長は、鹵獲した装備を視察し、表彰した。
 

 

 1951年。戦線にも春が訪れた頃、国連軍が反撃を開始した。3月6日、リッジウェイ司令官は「リッパー(Ripper)作戦」という銃による反撃を命じた。国連軍は3月14日、ソウルを70日ぶりに再奪還した。中共軍は決戦せず、ソウルから撤収した。全戦線で国連軍は北進を続け、東部ではついに38度線を突破した。米国政府は、ソウルの再奪還と38度線の突破というチャンスを生かそうと考えた。米国務部は休戦の提案文草案を作成し、国連参戦国の政府に回覧させた。共産軍の南侵前という状況で休戦させることが提案の核心だった。

 
 
 1951年3月23日付で9師団は3軍団の予備隊に入った。同時に、休暇、教育、訓練などが可能となるだけの余裕も生まれた。師団司令部は、江陵市の南方6km、溟州郡九山里に設置された。朴正熙参謀長の指揮により、師団は軍装検査を実施し、故障品や不足品を揃え、小隊、中隊の訓練を行った。

 

 4月15日、朴正熙は大佐に昇進した。数日後、朴正熙は連絡兵を送り、大邱にいる陸英修を軍用救急車に乗せて連れてきた。陸英修は、夫の肩に無窮花の花が3つ付いているのを見て「あら、参謀長さま。階級章が変わったのではありませんか」と言った。そして「肩が引き締まってみえて格好いいわ」と夫を褒めると、朴正熙は照れ笑いを浮かべた。2人は、江陵でだいぶ遅い新婚旅行を楽しんだ。

 
 
 陸英修も軍服をまとい、朴正熙と鏡浦臺に出かけた。夢のような新婚生活を1週間過ごして大邱へと帰った妻に、朴正熙は写真と手紙、そして自作の詩を送った。陸英修は、届いた写真を知人や家族に自慢して歩いた。
 
 
 陸英修の姉、陸インスンは「あらまあ、さぞかし綺麗なところだったのね。2人で水入らずな時間を過ごしたことでしょう」と冷やかした。姪のホン・ソジャは、叔母の写真を見て「軍人との恋愛って随分寂しいものだと思っていたけど、違ったのね」と意外そうにつぶやいた。
 
 
 「2人の関係は、写真が全て物語っていました。言葉にする必要がないほどの写真でした」
 
 
 朴正熙が送った詩の題名は「春三月素描」だった。

 

 「桜は散り、カモメは揺らぎ / 鏡のような湖に浮かぶ一艘の舟 / 鏡浦臺の手すりに寄り添う私と英 / 老松は亭々 亭子はそびえ / ここは鏡浦臺か 古人も訪ねたという / そこは東海か ここは鏡浦か / 白い砂浜 青い松原 かもめが浮かぶよ / 春三月 延々なる日々に 時が経つのも忘れてしまう / 風はそよそよ 湖水はゆらゆら / あそこに見える砂場には かもめが揺らぐ / 我々も 櫓を漕ぎ 流されてみようか」

 

 

 陸英修は、「私と英」という節に書かれた「英」という1文字に鉛筆で丸を付け「私、英修」と書き足した。末尾に「1951年 425日」と記されている詩を、陸英修は大切に保管し、幾度となく読み返した。
 

 

 

酒と肴と「サカナ事件」
 

 

 

 1951年4月25日、9師団は1軍団から3軍団に配属が変更された。また、江原道の江陵から五臺山北方の浦里へと移動し、10km四方の戦線を担当した。2日後、李ソンガ師団長が太白山地区の戦闘司令官に就いた。師団長の後任には崔錫准将が就いた。当時の司令部は朴正熙参謀長を中心に足並みが揃っていたが、彼の赴任によって雰囲気が一変した。

 

 ある日、崔錫師団長が一線を視察中、連隊が自身の指示通りに配備されていないと感じた。彼は、作戦参謀の朴チュンシク中佐に対し、午後の参謀会議でこの件を解明するよう指示した。朴中佐は、朴正熙参謀長と共に作戦命令における不手際の有無を調査したが、部隊の配置は命令通りに行われていたことが確認された。

 

 朴チュンシク中佐は参謀会議で、崔師団長が決済した作戦命令書を持参した。崔錫師団長は「俺がこれにサインをしたというのか。見覚えがないぞ」などと言い張り、作戦参謀を侮辱し叱責した。この一件で、参謀陣と師団長の間には大きな亀裂が入った。参謀たちは次第に師団長派と参謀長派へと分かれた。当時の宣伝部長は「湧金屋時代」の著者であり、詩人でもある李ヨンサン大尉だった。彼は当時を以下のように記憶している。

 
 
 「参謀長は、山の中腹にある寂れた韓屋を宿舎として使用していた。夜になると、その宿舎にいつも同じ面子の参謀たちが三々五々集まった。参謀長派のメンバーたちだ。彼らの話題はもっぱら師団長の悪口だった。ある日の夜、K参謀が「参謀長!師団長閣下がポマードを供給しろというのですが、軍需品の品目リストに入っていますか」と聞いた。

 

 

 『ポマードだと!頭につけるあのポマードか』
 『はい、そうです』
 

 

 その瞬間、朴正熙大佐の目の色が変わった。『中共軍が30里先に接近しているというのに、ポマードとは何事だ!道端には馬糞でも牛の糞でも何でも転がっているぞ!髪が固まるようなものを適当に缶に詰めて持っていってやれ』

 
 
 朴大佐のこの一言に、集まっていた人たちは大爆笑だった」

 

 

 朴正熙、金ジェチュン兵站参謀、李ヨンサンの3人は、暇さえできると川辺へ行き、犬を捕まえては酒のつまみにした。問題は酒だった。後方部隊が仕入れた清酒や国産のウィスキーがない時は、医務室のエチルアルコールを水で薄めて飲んだ。
 
 

 ある日のことだ。朴正熙参謀長のバラックに参謀たちが集まっていたとき、金シジン憲兵隊長が「江陵に行きがてら寄った」としながら一皿の魚の刺身と1本のウィスキーを持ってきた。その後、師団長のバラックに入っていった。この様子を見たある参謀が朴正熙大佐にこう告げた。

 

 

 「参謀長、何か変ですよ。師団長は特に酒好きというわけでもないのに、この野戦でなぜ刺身など食べようとしたのでしょう」

 
 参謀らは怪訝な表情を浮かべながら、師団長のバラック側に耳を傾けた。関係者と目撃者らの証言を総合すると、だいたい次のような状況だったようだ。

 

 「刺身が届きました」

 「そうかそうか。早く連れてこい」

 

 

 崔錫師団長が急いで野戦用の折りたたみ椅子を広げる音が聞こえた。金シジンは座れという合図だと勘違いし、どうもおかしいと思ったという。訳が分からなかった金シジンは「師団長、仰せのとおり、東海岸から新鮮な刺身を持ってきました」と繰り返した。

 

 
 「だから早く連れて来い」
 「はい、でも・・・」

 

 突然、怒鳴り声と共に、ガタガタと大きな音が聞こえた。参謀長室で耳を傾けていた朴正熙以下の参謀たちは笑いをこらえるのに必死だった。

 

 

 「この野郎!俺は生きた『サカナ』が食いたいと言ったのだ!死んだ『魚』が食いたいなどいつ言ったか!バカ野郎!」

 

 

 軍内ですっかり有名になったこの「魚事件」には後日談がある。5.16事件の直後、金シジンは反革命分子の疑いをかけられていた。この頃、金ジェチュンが朴正熙少尉を訪ね、こう話したという。

 

 「9師団の頃、金シジンは『サカナ』という言葉が『女』の隠語だということも知らないほど純粋な人だったという事をご存知ですよね。この際、我々が面倒をみませんか」

 
 
 金シジンは青瓦台の情報秘書官として抜擢された。自宅で休養していた崔錫予備役将軍も、朴正熙の配慮によって国家安全保障会の常任委員に任命された。

 

 「サカナ事件」の数日後、朴正熙参謀長は、体調不良を理由に欠勤した。医務部長の診断書を師団長に提出し、大邱の自宅で静養することを伝えた。この頃、朴正熙は転任の希望をかなえるために試行錯誤していた。一方の上層部では、彼を大邱にある陸軍情報学校の学校長に就任させようとしていた。

 
 
(翻訳・構成=金惠美)
 
 
 
 
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