張真晟(脱北詩人)
最近、崔承哲処刑説が南北関係の現状況を示している。メディアは状況を劇的に表そうとするように崔承哲の前職責を統一戦線部(統一戦線事業部)の首席副部長とも言っている。また、崔承哲が統戦部の首長として去る十年間の南北経済協力や交流を主導したかのように説明される。北韓は一介幹部が自分の職責の権限と決心で国家政策を決められる国ではない。いくら組織の責任者であっても、政策や組織論理に服従するのみで、一人の指揮権限で組織全体が揺れる北韓でもない。
統戦部は、統一・外交機関として、他の部署とは違い特別に多くの副部長らがいる。会談、政策、交流、縁故者課、組織、幹部担当副部長たちの他にも、キリスト教、仏教、天道教、天主教、社会民主党など、宗教および野党委員長たちも統戦部の副部長の肩書を持っている。これは体制の多様性を対外的に示すためである同時に、その機能らを利用した「対南交流」を深化するためだ。
崔承哲は交流課担当の課長職の副部長に過ぎない者だ。課長職副部長とは、正式肩書は課長だが、副部長の待遇をするということだ。統戦部の実際の責任者は、第1副部長であり、第2副部長は統戦部のすべての機能を含蓄させた祖国平和統一書記局の局長だ。序列第3の人物は政策課担当の副部長だ。2004年当時、統戦部の職位序列は、第1副部長の林東玉、第2代理人は、祖平統書記局局長の安京浩、第3人者は、政策担当副部長の蔡・チャングクだった。会談担当副部長、朝キ連(朝鮮キリスト連盟)委員長、社会民主党委員長がその後を次ぐ。
南韓言論は、崔承哲を統戦部の副部長というが、これは彼が南北関係の正面に頻繁に登場したことによる錯覚現象だ。すなわち、南の言論が名付けた職責であるだけで彼の実際の肩書は課長だ。我々は、北韓の対外性と対内性の二重構造にいつも混同する。金容淳を統戦部部長だと誤解したのもその一つの事例だ。許錟は金正日と従姉関係の民主朝鮮社主筆の金貞淑の夫として作戦部、35号室、対外連絡部、統戦部を総括する実権派対南秘書だった。
ところが、前国際部副部長だった金容淳の対南秘書としての権限は、許錟水準に達しなかった。対外連絡部部長の姜寛周、作戦部部長の呉克烈が金正日の信任において金容淳より一枚上だったため対南秘書としての権限行使を最大発揮できなかった。北韓で幹部らの実権は、公式肩書でなく金正日の信任度により決定される。結局、金容淳は対南秘書の実権よりアジア太平洋委員長という外交部門に重点を置かざるを得ず、アジア太平洋平和委員会は統戦部の権限に属するから、金容淳はその時から統戦部長として南の言論に認識されることになった。北韓は部長職が空席の部署長たちには公式に第1副部長と指称する。党組織部、国家保衛部と同様に統戦部部長も金正日が代行(兼任)していた。
このように崔承哲も対外用の人物であるにすぎず、統戦部の実権者でない。疑心の多い金正日は、自らの最側近を絶対の外に出さない。だから外務省第一副相の姜錫柱を除き、対外的に正面に頻繁に登場する人々は、業務の過程で意識変質の可能性がある者と規定して、党組織部の4課が別途に「動揺階層」として分類する。崔承哲はそういう部類の対外用に過ぎなかった。仮に、彼が南北対話へ主役として出ても、最小限の自由な発言する権限もない。政策課、会談課、祖平統参事室が作った脚本通り動いて行動せねばならず、これがつまり北韓式の唯一指導体制だ。
北韓に強硬派や穏健派があるなら、それはまさに金正日だけだ。去る十年間は「太陽政策逆利用戦略」を推進して南北経済協力や交流をアピールさせたと言うなら、今はだれ一人や組織の変化によってでなく、北韓の対外政策そのものが強硬なのである。このような脈絡から、過去、「太陽政策逆利用戦略」を主導した統戦部が南北関係の前面から退かれたのでなく、唯一の対南窓口部署として南北対話で相変らず対南強硬を主導していると見るべきだ。
第1副部長の林東玉の死後、現実権者は統戦部で第2人者として育った安京浩であり、第2人者は、我々にまだ知られていない政策担当副部長の崔・チャングクだ。南北対話、経協および交流、宗教、親北団体管理、対南心理戦など複合的な機能と最高の人材らを持った北の唯一の対南専門部署の統戦部が、「わが民族同士」から、民族分裂と平和脅迫戦略を主導していると見なければならない。
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