するどい矢を放った感がある。大韓航空機事件とは何だったのか? 平壌ウオッチャーなら、いまなお謎多き1988年のソウル五輪を翌年に控えて起きたこの大事件こそ、彼国の最大のタブー、いや正体そのもの、と熟知している。その実行犯が矢を放ったのである。闇に葬り去りたかったであろう金正日は歯軋りし、そして怯えているに違いない。
著者である西岡力氏、趙甲済氏の真実追求への執念と敏腕にまずもって敬意を表したい。むろん、北からも、南からも、ときの権力者によって人生を翻弄された実行犯、金賢姫元死刑囚(この本を読めば、こうした呼び方はどうしてもふさわしくないように思えてくるので、以下、さん付け)の勇気があればこそである。それは彼女にとって「人生」の回復とでもいうべき営みなのかもしれない。
金賢姫さんには私も1度だけインタビューを試みたことがある。彼女が翻訳していた日本の小説「彗星物語」の著者、作家の宮本輝さんと一緒だった。振り返れば、切り込んだ質問ひとつできず、記者としてまことにお粗末、恥ずかしいかぎりであった。ただ、その語り口やたたずまいの柔らかさにひたすら驚き、テロリストだったとの落差に北朝鮮という国の空恐ろしさを思ったものだった。革命のためなら、正義はお化けだ、とも。
さて、若くして波乱万丈、生死の境をも越えてきた金賢姫さん、たっぷり残された人生は罪を背負いつつ、静かに暮らすのだろうと想像していた。だが、そうではなかった。第2幕があったのだ。韓国の左派政権の実態が、いかなるものだったか? この本では、彼女の身にふりかかったさまざまな圧力、迫害が明かされている。それもこれも南北融和のため、ここでも正義のお化けが出てくる。
金正日は日本人拉致を認めながらも、なぜ田口八重子さんを「死亡」としたのか? そのカギが大韓航空機事件にある。田口八重子さん=李恩恵であること、何より金正日の責任は認められないからである。西岡力氏はまえがきで、注目すべき情報を記している。こうしたシナリオを書いたのは「姜寛周(別名・姜周一)対外連絡部長」らしいと。
それにしても、朝鮮半島をめぐる情報戦のすさまじさである。拉致問題の解決のためにも大韓航空機事件の真相をさらに掘り下げなくてはならない。金賢姫さんも、まだまだ語りつくしてはいないだろう。むろん、この本が、すべての土台となるのは間違いない。
(すずき たくま=毎日新聞編集委員) |