連載8(上) ― 逮捕、そして予期せぬ別れ
1948年10月19日の夜8時頃、緊急用のラッパ音を合図に、麗水に駐屯中の14連隊で反乱が発生した。この連隊は、済州島の共産党員討伐作戦への出動を控え、待機中だった。連隊内の南朝鮮労働党組織責任者だった池昌洙が主導した。この日の反乱では、20数人の将校たちが現場で射殺された。14連隊が麗水を占領すると、順天に派遣されていた2つの中隊も呼応し、順天を占領した。この反乱により、麗州では軍人と公務員らおよそ1200人が殺された。順天でも400人以上の死傷者が発生した。陸軍本部は21日付で、光州5旅団司令部内に反軍討伐司令部を設置した。司令官にはソン・ホソン准将を任命し、2旅団(旅団長ウォン・ヨンドク大佐)と5旅団(キム・ペギル大領)を統率するよう指示した。
政府は22日、麗州と順天に戒厳令を敷いた。数日後、討伐軍司令官にウォン・ヨンドクが就任した。参謀長には陸軍情報局長を務めていたペク・ソンヨプが就き、作戦、及び情報参謀には、情報局諜報課長と戦闘情報課長を兼任しているキム・ジョムゴン少佐が就任した。キム少佐は内勤を担当していた。司令官と参謀長が一線戦闘地域を周り、指示が出たら順次処理をするという流れだった。下級部隊に対する作戦命令の伝達、補給基地の管理、警察との連絡などが主な業務だった。
キム・ジョムゴンは、警察との連絡業務を柳陽洙少尉に担当させた。キム少佐は、戦闘情報課のイ・ギゴン少佐をメンバーに加えた。キム・ジョムゴンは、作戦参謀業務の補佐役として、過去に部下を務めていた朴正熙少佐の名が浮かんだ。彼は、士官学校の中隊長だった朴少佐に対して討伐司令部勤務を命じるよう、ウォン・ヨンドク司令官にもちかけた。ウォン大佐は、8連隊長時代を朴正熙と共に過ごしたことで彼の優れた能力を十分把握していた。「左翼将校」の異名を持つ朴正熙少佐は、左翼の反乱軍を鎮圧する討伐軍司令部の作戦将校となった。キム・ジョムゴンは次のように証言している。
「戦闘司令記録によると、朴正熙が作戦参謀として記されているが、事実ではありません。私を補佐役に置き、状況伝達ボードの整理、作戦関係の報告書作成などを担当していました。大変効率よく仕事をこなしており、特におかしな様子は見受けられませんでした。よって、反乱軍に有利になるよう部隊の配置を行ったという噂も事実ではありません」
光州の討伐司令部にやってきたジム・ハウスモン大尉は、米軍事顧問団長の特使だった。朴正熙については「米国人を嫌う人物」との情報があったことから、彼は通訳を通して朴正熙に話しかけた。朴正熙は英語を十分に理解している様子ではあったが、英語で話そうとはしなかった。この頃、朴正熙は深い悩みを抱えていた。すでに始動されていた粛軍捜査の手が自分にまで伸びてくるのではないか、と不安に陥っていたが、誰にも言えずにいた。
朴正熙をさらに不安にさせる出来事が発生した。朴正熙と共に南朝鮮労働党に所属していた「軍内左翼の大物」、チェ・ナムグン15連隊長が討伐司令部に連行されてきたのだ。
15連隊は馬山に駐屯していた。麗州14連隊が反乱を起こすと、チェ・ナムグンは「河東方面に出動せよ」と命じられた。10月21日、彼は1つの大隊を率いて智異山に到着した。彼は反乱軍の奇襲を受けた。チェ連隊長は、趙始衡(農林部長官を歴任)少尉と共に反乱軍に捕らわれ、6日後には河東郡の花開市場に現れた。チェ・ナムグンは後に軍法会議でこう話している。
「反乱軍トップの金智会部隊と戦った時、彼を殺すことも考えられた。しかし、同じ方便を使い、同じ咸鏡道出身であることからも、情が生じてどうしても殺すことはできなかった。だから、私が降参した。左翼思想だとしても、昨日の戦友が骨肉相殘(同族同士で殺しあうこと)することは大変胸が痛む。そして、私を可愛がってくれた上官や部下を裏切ることはできなかった。金智会の妻が黙認し、脱出することができた」
軍当局では、チェ・ナムグンが反乱軍に捕らわれた時の状況から、矛盾点が多いと判断し、ひとまず光州討伐軍司令部に軟禁した。ここで彼を尋問したのは、キム・ジョムゴン少佐だった。キム少佐が8連隊の中隊長だった頃、ウォン・ヨンドクの後任として就いていたチェ・ナムグン連隊長に会っていた。当時から米軍の防諜隊はチェに目をつけていた。彼は初級将校時代、家族を連れてくると言い残したまま2ヶ月間も部隊を離れ、北朝鮮を往来してきたことがあった。
キム・ジョムゴンは、過去の上官だったチェ・ナムグンの階級章を自ら外させた。睡眠は将校宿舎でとらせた。キム・ジョムゴン少佐は、イ・ギゴン少尉を呼ぶと「今晩、チェ・ナムグンと朴正熙は何かしらの話し合いをするだろうから気をつけろ」と注意した(イ・ギゴンの証言)。その夜、やはりチェ・ナムグンと朴正熙は夜通しひそひそと話をしていた、という。
キム・ジョムゴン少佐は、チェ・ナムグンに供述書を書かせた。読んでみると、目撃者の証言とはズレがあった。かといって強制捜査をするわけにもいかなかった。キム少佐は、チェ・ナムグンの送致と共に、粛軍捜査本部となる陸軍本部の情報局へ自身の所見書を送付した。陸軍本部は、11月8日付でチェ・ナムグンを4旅団の参謀長に就かせるよう電報で発令した。
その直後、ソウルに撤収したキム・ジョムゴン少佐は、挨拶がてらペク・ソンヨプ情報局長を訪ねた。丁度その頃、米軍の防諜隊将校がチェ・ナムグンに関連する資料を置いていった。ペク局長は、本棚に置いてあったキム・ジョムゴンの所見書を出し、資料と照らし合わせるとみるみる顔色が変わった。チェ・ナムグンを即刻逮捕するよう4連隊に電報を打った。チェは、赴任せず逃亡していた。数日後、彼は大田で逮捕された。彼は軍法会議で次のような陳述を残した。
「私は国軍を背反した反逆者となった。しかし、軍法会議ではさしづめ金智会について話さざるを得ず、二重の背反者となる。だから、軍人生活を清算し、静かに去ろうと考えて逃亡した」
朴正熙は、チェ・ナムグンの逮捕が自分の逮捕につながる可能性があることは分かっていたが、逃亡することはなかった。彼は麗州14連隊の反乱が鎮圧された後、ソウルに撤収し、陸軍本部の作戦教育局で科長要員に就くよう辞令を受けた。この頃、チェ・チャンリュンが現れた。チェ・チャンリュンは2年8ヶ月前、ヨ・ウンヒョンの指示に従い、パク・スンファンら同志たちと共に北朝鮮に入り、人民軍創設メンバーとして従事した。そんなチェ・チャンリュンが脱出してきたのだった。
満州軍官学校出身のチェ・チャンリュンは、1期後輩だった朴正熙を往十里の自宅に招いた。彼は自身が体験した共産主義の「悪魔性」を熱く語ると、一刻も早く南朝鮮労働党から足を洗え、と説得した。朴少佐が帰ると、チェ・チャンリュンは隣の部屋にいた満州軍の後輩、朴蒼岩(陸軍准長予備)に「『背を向けろ』といったら、朴正熙は首を縦に振ったよ」と話したという。
軍内の南労働党組織に入り込んでいた朴正熙少佐は、北朝鮮の共産主義を体験し、越南してきたチェ・チャンリュンの言葉に心が揺れたのだろう。チェ・チャンリュンは、南北一体となる希望を持って越北し、金日成一味の姿に絶望するまでの過程を説明した。チェ・チャンリュン、パク・チャンアム、パク・イムハン、パン・ウォンチョルら満州軍出身の将校たちは、光復後、パク・スンファンを中心としてソウルに集まっていた。そして、ヨ・ウンヒョンの指示のもと、金日成の人民軍創設に参与するため1946年初頭に越北していた。
パク・スンファンは光復前、満州軍の指揮者でありながら、ヨ・ウンヒョンからの蜜命を受け、民族意識が強い朝鮮人満州軍将校たちを数十人ほど包摂して抗日組織を築いた人物だ。奉天で光復を迎えた彼は、2日後、軍用機でソウルに到着し、ヨ・ウンヒョンの建国準備委員会に協力していた。パク・スンファンは、共産主義者らが多く潜んでいた私兵集団、「朝鮮国軍準備隊」をつくった。準備隊では学生兵出身の李赫基を総司令官に置き、パク・スンファン自身は副司令官となった。
満州軍出身の同志を集めたパク・スンファンは「金日成の人民軍に、期間メンバーとして参加し、南北が合体するときには南北韓いずれの軍隊にも布陣している我々が統一の主導権を握らなければならない」と説得した。当時の満州軍出身者たちは、南韓に上陸した米軍の行いと、これに迎合した一部の韓国人らの態度に憤っていた。
彼らはソ連軍に対し「貧しいが、米軍よりはマシだろう」と考えていた。パク・スンファンと満州軍の同志たちは、越北し、金日成に会った。金日成は、彼らを創軍作業に参加させず、各級学校に配置し、反共の学生たちを宣撫するために利用した。ヨ・ウンヒョンが北朝鮮を訪問した際、パク・スンファンは北朝鮮の指導層に会った時の感想を聞いたという。ヨ・ウンヒョンは押し黙った後、ほどなくして口を開いた。
「さあ。北朝鮮に新しい労働貴族が生まれたというのは正しい表現だと思うがね」
パク・チャンアム、パン・ウォンチョルも同じ結論に達していた。パン・ウォンチョルは、金日成と側近たちの贅沢な暮らしぶりに衝撃を受けた。パン・ウォンチョルは、飢餓にさらされる人民と私兵たちには目もくれず、酒池肉林の饗宴に明け暮れる金日成一味の姿や、品性に欠ける数々の行いを目の当たりにした。パン・ウォンチョルは、「こいつらは共産主義の皮をかぶった悪の根源だ。政治集団ではなく、チンピラ集団だ」との結論に達した。
チェ・チャンリュンは、アダム・スミスの「国富論」を読み、また違う衝撃を受けた。チェ・チャンリュンから「国富論」を借りたパン・ウォンチョルも、目が覚めるような体験をした。共産主義の理論を公布しながらも積もり積もった疑問が「国富論」によって解消されたのだ。パク・スンファンと同志らは、北朝鮮に来てはじめて共産主義の悪魔性を目の当たりにしたのだ。
1947年、パク・スンファンと同志らは一斉に粛清され、刑務所に入った。パク・スンファンは獄死した。1948年9月に出所したチェ・チャンリュンらは、すぐ南韓に向かった。チェ・チャンリュンとパク・チャンアムは、南にいた数人の同志たちが南朝鮮労働党に入党していることを知り、彼らを訪ね回っては手を引くよう説得した。
チェ・チャンリュンは、自身の「共産主義絶望体験」を満州軍官学校の後輩である朴正熙少佐に聞かせた。共産主義を体験した者が、共産主義を理想論と語句の意味だけで支持する者たちを説得する―。これは、韓国では今なお見られる光景だ。朴正熙は、共産主義に冒された中心メンバーではなかった。兄の被殺と、イ・ジェボク、チェ・ナムグンという人間関係に影響され、共産主義に接近した。そして朴正熙の反骨的な気質が刺激され、自然と共産党組織に呑まれたのだった。
朴正熙少佐は数日後、粛軍捜査機関に逮捕されたが、果敢にも共産主義と絶縁し、自身の身上について告白する。この決断をした1つのきっかけとして、チェ・チャンリュンの説得があったというのがパク・チャンアムの推察だ。チェ・チャンリュンとパク・チャンアムはこれに先立ち、麗順14連隊反乱事件が発生する前、満州軍の先輩だったチェ・ナムグン連隊長に対して左翼から手を引くよう説得していた。越南して2週間が経った10月のはじめ、パク・チャンアムはパゴダ公園脇にあるホテルでチェ・ナムグンと会った。パク・チャンアムは間島特設隊の副士官だった満州軍時代、チェ・ナムグンを上官に迎えており、彼の人格には感服していた。
「なぜここまで来たんだ?」
「北朝鮮は我々が考えているようなものではありません。先輩ももう手を引いてください」
パク・チャンアムの共産主義体験を聞いたチェ・ナムグンは、動揺の色を見せた。「私が足を洗ったら後は死ぬだけだ」などと弱音を吐いた。パク・チャンアムに臆病であると責められるとチェ中佐は言った。
「君の言葉を信じないわけではないが、私の考えとは違っている。チェ・チャンリュンを連れてきてくれ」
翌日、パク・チャンアムとチェ・チャンリュンは、チェ・ナムグンを訪ね、夜を通して説得を繰り返した。夜が明け始める頃、ようやくチェ・ナムグンは決断した。
「分かった。足を洗うよ。どうせ俺は死ぬだろうけど・・・」
麗順14連隊反乱事件が起こると、チェ・ナムグンはどうすることもできず、逮捕された。チェ・チャンリュンの説得により、動揺した状態で反乱事件に直面したため、鎮圧軍でもなく、反乱軍でもないという曖昧な態度だったと思われる。朴正熙少佐の逮捕については、龍山の官舎で同居していたイ・ヒョンランがリアルに証言している。
「食事をつくり終え、朴正熙の帰りを待っているとイ・ヒョ大尉が訪ねてきました。酒を飲んでいた様子でした。イ大尉は私に金を渡しながら『しばらくそのまま待っていてくれ』と言いました。ミスター朴は出張に行った、というのです。いくらなんでも、電話をよこすなり、メモで伝えるなり方法はあったはずです。一晩考えても、やはり何か変だと思いました。翌日、カン・ムンボン大佐夫人を訪ねました。夫人は『まだ知らなかったのね』と言うとカン大佐を呼び、(逮捕の事実を)教えてくれたのです。本当に驚きました。今でもその時のことを思い出すと胸が痛みます。当時は多くの人が官舎にいました。しかし、まだ若く、頼れる人はいませんでした。北があれほどまでに嫌だったのに、『赤』の妻だったとは・・・。数日後、捜査担当者のキム・チャンリョン氏が訪ねてきて、経緯を説明してくれました。ミスター朴からの伝言メモも渡してくれました」
『本当に申し訳ない。これだけは信じてくれ。ある朝、陸軍士官7期生の卒業式に出席しようと髭をそり、国防部に出勤したらある人が逮捕の情報をこっそり教えてくれた。私は逃げようと思えばいくらでも車で逃げられたのだが、逃げなかった。ヒョンランを愛しているからだ。これが私にとってどれほど不利になることか。でも、私は結局、ヒョンランに対して本当に失礼なことをしてしまった』
(翻訳・構成=金惠美)
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