やがて、キッチンリバーにさしかかった。商店街から少し外れたところで、すぐ脇がアパートになっている。
リバーの入口はドア式で、焦茶色の木縁(きぶち)にガラスがはめてある。ドアを押すと、ドアの上の鈴がチリンと音を立てる。
伊吹と祥一はドアを押して入って行った。「いらっしゃい」コックが威勢のいい声でいった。時間が早いせいか、店内に客は誰もいない。この前のときと同じように、二人はカウンターに向かって坐った。
「ビーフシチューと野菜サラダとライス」
伊吹は、コックに早速注文の声を発した。ポタージュスープを、今夜は伊吹は注文しない。
伊吹と同じものを、今夜は祥一も注文した。それから、少しビールを飲まないか、と伊吹にいうと、
「飲もうか」
生ビールの中ジョッキを二つ、祥一はコックに追加注文した。
「酒の方は行ける口かい」
祥一は伊吹にたずねた。
「少しはね」と伊吹は答え、「それにしても、金さんはよく飲むねえ」いつだったか、祥一の部屋に安ウイスキーの空き瓶が何本も並んでいるのを伊吹は見たのだ。
「どうして飲むんですか」
伊吹は「です」調できいた。
「やりきれないからさ」
「やりきれないって、何が」
「生きていることがだよ」
「酒で紛れますか」
「一時的にはね」
「それもひとつの方法だなあ」
「君はやりきれなくないかね」
「そりゃあやりきれませんよ」
「びしょびしょにかい」
祥一がいうと伊吹は笑った。
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「何によって紛らせているんだい。おそらく、岡田は、碁で紛らせているんだろう。君は何によって紛らせている」
「読書は答えにならないだろうな。せいぜい音楽ってところかな」
たしかに、伊吹は、読書家であると同時に、音楽愛好家でもあった。祥一の部屋にはラジオしかないのに、伊吹の部屋にはかなりいいレコードプレーヤーがある。書棚の隅には、クラシック音楽のジャケットが数十枚並んでいる。レコードを聴くのが伊吹の趣味のようだった。特にモーツァルトが好きだといった。
「バッハもいいな。特にロ短調の序曲がね。あの出だしが好きだ」
管弦楽組曲第二番ロ短調である。
伊吹の言葉をきいて、自分たちもいま、人生の序曲にいるようなものだな、と祥一は思ったものである。ただし、こっちの方の出だしはいいなんてものではなく、まったく混沌としている。
「お待ち遠さま」
店員の若い女性がジョッキを二つ運んできた。祥一と伊吹はビールを飲みはじめた。伊吹はジョッキの三分の一ほどを一気に飲み、手で口元をぬぐいながら、
「ああうめえなあ」
その口調がおかしかった。少しどころか、伊吹はアルコールの方も結構行けるらしい。
「音楽でやりきれなさが紛れるかい」
祥一は話題を戻した。
「一時的にはね」
伊吹は祥一と同じことを答えた。
「瞬間的には、だろう?」
「瞬間の連続ということだってあるよ。永続ってことは、瞬間の連続でしかない」
「無常の連続化による有(う)常化ってわけか」
「ははは」
伊吹は笑い声を立てた。隅でグラスを拭いていた女子店員が二人の方に目を向けた。
1984年7月25日4面掲載 |