月刊正論2008年3月号
昨年末の行われた韓国の大統領選で、野党ハンナラ党の李明博が第17代大統領に当選してから1ヶ月あまりが過ぎる。李明博は大韓民国の10人目の大統領で、初めての企業経営者出身である。韓国史の中で、金大中・盧武鉉の左派政権10年は「国家の分裂と安保破壊の時代」として記されるはずだ。今度の政権交代は、人民を虐殺する金正日全体主義との南北連邦制にだけしがみついてきた「左派独裁」を国民が審判した、選挙による「無血革命」である。韓国の保守右派は国を救うために戦い、民族主義を装った反逆的左翼権力との闘争で勝利した。この勝利により、20年に亘った韓国社会の左傾化が止まったのである。
完全な政権交代のためには、まだ総選挙(4月9日)という後半戦があるが、すでに、新政権への道筋をつける政権引受委員会(去年の12月26日発足)が、実用主義を標榜し、左派政権10年間に肥大化した政府組織の画期的なスリム化や、左派的諸般政策および左傾化した社会構造を変える作業に取組んでいる。
ただ、左派権力システムの一部組織とその手先たちは、まだ民主的な選挙結果に対し露骨的な抵抗姿勢を隠していない。李明博政権が果たして期待したほどの保守的政権なのかどうか、国家の正常化をどこまでは成し遂げられるかなどは、これから試されるが、冷戦の終盤期から20年も左傾化が続いてきた韓国が、右傾化へと反転することは確実だ。
今回の大統領選が持つ歴史的な意味
今度の大統領選の歴史的意味としての「左傾化の終息」はなぜ重要なのか。地球上の一部先進列強を除き、韓国を含むほとんどの国は、20世紀の二度の世界大戦の結果として、近代国民国家の建設に着手することができた。だが、今も国連加盟国の多数を占めている開発途上国、あるいは第3世界の国々、特に植民地から独立した国家の中で、この近代国民国家の建設が順調に進み、さらに先進国への挑戦に成功した国は少ない。もっとも、先進的国家建設が50年や100年間で出来るようなことではない。
そもそも、先進国になるには、基本的な幾つかの条件を充たさないといけないが、ほぼ同じ環境と条件を持つ国々の中でも、ある国は成功し、ある国は失敗するから、この成敗を分ける原因があるはずだ。ようするに、近代国民国家としての成功の前には幾つかの壁や罠がが立ちはだかっている。
戦争や災難でなく、見えない内にぶつかるこの壁や罠の代表的なものは、韓国の60年間の経験から言えば、国家の百年の計を誤るポピュリズム的政策、法治の不徹底や指導層の不正腐敗、そして左派権力による平等主義や社会の左傾化などがある。先進国に達する前に、平等と分配を求めるポピュリズムと左傾化に走った社会は、社会を発展させるエネルギーを必ず失うようになる。いかなる国も先進国になるのはこのような壁を乗り越えなければならない。
20世紀は、共産主義や社会主義独裁の実験が失敗した世紀であり、社会主義のイデオロギーで国づくりを試みた新生国家はすべて失敗した。また、一度、ポピュリズムや左派独裁で失敗した国が民主的選挙を通じて立ち直った例もほとんど無い。なのに、韓国は世界がうらやむ圧縮成長に成功しながらも、旧ソ連と東欧から共産主義と社会主義独裁が姿を消す時、逆に左傾化に走ってしまったのである。
もちろん、今回の李明博の当選は韓国の国家正常化への始まりにすぎない。南北連邦制など、左傾化路線の既定事実を死守しようとする左派が、李明博政権に抵抗するであろうし、国家正常化への具体的方向に関する社会的合意も出来ているとは言い難い。ただ、すでに与党になった、ハンナラ党は分裂でもしない限り、総選挙(4月9日)で過半数は無難に取れるはずだから、国家正常化への成敗は新政府の意志と政局管理能力の問題になる。
選挙1ヵ月半前に、李明博とハンナラ党の対北政策に反発し、ハンナラ党を脱党した李会昌は、大統領選で得た15.1%の支持を基に「自由新党」(1月10日、創党発起人大会、後に自由先進党に改称)を作った。北朝鮮は李明博の当選には沈黙しながら、この「自由新党」の創党に対しては非難(1月12日、平壌放送)を浴びせている。自由新党が韓国の政治の右傾化を牽引するのを恐れている。複数の右派政党の競争状況は、李明博政府の政局運営の重要変数になりそうだ。
一方の左派は大統領選での惨めな敗北で極度の混乱が続いている。旧与党の「大統合民主新党」は1月10日、孫鶴圭(前京畿道知事、大統領選の党内予備選で鄭東泳に敗北)を新代表に選出した。これでこの旧与党から盧武鉉勢力の持分は大幅縮小した。李海瓚(元総理)はハンナラ党出身の孫鶴圭代表は認められないと脱党し、党の分解現象が始まった。1月中旬の世論調査の支持率では「大統合民主新党」はハンナラ党の6分の1に過ぎない。4年前の総選挙で過半数を取った左派は、4月の総選挙で党の形を保てるかどうかの危機である。
また、大統領当選者を捜査する前代未聞の「李明博特検法」は、憲法裁判所から法律の一部が違憲だと判決(1月10日)された。「参考人に対し法院の令状なしで同行命令を出す」条項が違憲という判断だった。特別検事が1月15日から40日間以内(2月25日の就任式の前に)に李明博当選者にまつわる「疑惑」を捜査することになるが、当選者の大統領就任を妨げる結果は出ないだろう。
立ち上がった「愛国保守」
左派独裁から権力を奪還した李明博政府の今後を予測、展望するためには今度の大統領選をもう一度振り返ってみる必要がある。結果を見れば、韓国の大統領選挙史上最大票差の圧勝だったが、最後まで安心できなかった選挙でもあった。保守右派には、十年前も、五年前も負けられない選挙で敗北した悪夢が記憶に新しかったからだ。
今度も選挙戦の争点になったのは政策でなく、李明博の「不法行為に関する疑惑」の攻防だった。もっとも、過去20年間の国政選挙でも、まともな政策を提示した選挙戦が行われたことはほとんどない。李明博の当選は、基本的にハンナラ党の政策や実績によるものというより、盧武鉉の失政からの「反射利益」を得たものだ。多くの有権者は政策も理念も道徳も問題にしなかった。とにかく、政権交替を実現させるという、左派がもたらした「失われた10年」に対する膺懲のような雰囲気があった。
「ハンナラ党の対北政策では生ぬるい」として、より右よりの政策を挙げた李会昌の出馬は左派にとってはまったく想定外だった。李会昌が出馬した時点で、左派陣営(南北の左翼権力)はどうしようもない状況におかれた。今度の大統領選に死活的関心を持っていた金正日は、投票日まで専ら李会昌だけを非難、攻撃したのである。
では、金大中・盧武鉉政権の左翼独裁と反逆行為についての大衆の批判的覚醒や、親・金正日左派政権の延長に対する有権者の「無条件的」拒否は、どのように導かれたのであろうか。
韓国では、左翼権力がテレビなどメディアや文化をほぼ完全に支配し、大衆を扇動・洗脳していた。そうした環境条件の下で、愛国勢力が大衆を覚醒させ、反逆勢力に対抗させることは、当初は不可能に見えた。
金大中政権の後継として、盧武鉉の「386主思派」(金正日に忠誠する主体思想派)政権ができた時、保守右派の大半はただ絶望した。しかし、この絶望的状況の下で、「行動する愛国保守」が芽生えた。最初に立ち上がったのは、予備役大佐連合会(徐貞甲会長)を中核にした「国民行動本部」だった。国民行動本部をはじめ愛国的右派は当局から弾圧されたが、憲法を武器に、安保と自由、法治、市場経済、人権など憲法の核心的価値の守護を訴える活動を地道に展開した。
企業などからの支援は一切受けず、平凡な愛国市民たちのカンパを頼りに新聞広告を出した。左翼政権の国家保安法撤廃や韓米連合司令部の解体、金正日との連邦制など反逆の動きに対しては大規模な集会を開き、徹底対抗した。愛国保守の動きは当初は荒野の叫びにすぎないとされたが、宗教界や知識人などが呼応するようになり、国民的抵抗のうねりに拡大してきた。「386主思派」から転向したグループが「ニューライト」として左派との闘争に加わったことで、盧武鉉政権の中枢部は彼らの「親・金正日の正体」を隠せなくなったのである。
闘争資金も乏しい「愛国保守」の最も有効な武器はインターネットだった。韓国一の保守論客・ジャーナリストの趙甲済のホームページは、保守の行動に無関心、敵対的だった側にまで影響を及ぼすようになった。一般市民(有権者)が行動派保守の訴えに反応し始めたのは盧武鉉政権の3年目ごろからであろう。有権者の保守化に気付かず、無視したのは、ハンナラ党を含む政治家たちだった。
韓国に「真の保守」は、盧武鉉の亡国的諸政策や国家反逆に対抗する、正当防衛的闘争を通じて生れたと言える。韓国軍が金日成の南侵戦争や共産主義との戦いを通じ歴史上最強の軍隊に成長したように、韓国の真正の保守も、金大中、盧武鉉、金正日、そして日和見主義との闘争を通じ、動員力と闘争力のある組織として、または自由主義者として生まれ変わったのである。
一方、親北左派は彼ら自身が既得権勢力になり、権力や公的システムを支配する内に腐敗し、「太った豚」になった。そしてもともと彼らの自慢だった組織動員力も失った。保守派は正義や普遍的諸価値と愛国心を訴えたたのに、左派は左傾民族主義とポピュリズムで大衆を騙そうとしたのだ。
大統領という絶対権力を持った盧武鉉と金大中は、選挙法違反も憚らず、あらゆる手段を動員、左翼3期目の政権の実現に執念を見せたが、保守派からの熾烈な抵抗と反撃に遭い、結局、最後の段階で選挙への介入を放棄した。自ら諦めたというより、民心の離反で、彼らの試みが悉く逆効果をもたらすようになったからだ。そして、李会昌の出馬によって、左派の最後の秘策だった、「ハンナラ党を事実上“左派の宿主化”する」の戦略も、決定的に打ち砕かれた。勿論、保守右派候補を法律的に、あるいは物理的に除去する可能性も完全に消えた。
「民族主義」で韓国を取り込もうとした北
韓国は、金大中・盧武鉉により、悪魔的独裁者の金正日との連邦制の直前まで行った。韓国社会の正常化には時間がかかり、その過程が順調に運ぶとも楽観できない。韓国が、国家正常化を効率的になすため、そして、将来に二度と左翼革命家の夢想分子らに権力を乗っ取られることがないようにするためには、左傾化の歴史的背景を冷静に顧み、反省しなければならない。
盧泰愚政権以降の第6共和国は、左傾民族主義の実験の20年だったと言えるが、アジアで「反共の砦」だった韓国がなぜ、左傾化したのか。答えは単純だ。韓国社会の中に、共産主義や左派と闘える真の保守主義勢力が育つ前に、「反共体制」が崩れたからである。
冷戦は東西陣営間の戦いであり、総力戦だったので、幼い民主主義国家の韓国も体制(「反共体制」)をもって対処した。だが、この強力・唯一の「反共体制」が崩れると、後は左傾化を抑止できる装置が何もなかったのだ。つまり、韓国の反共体制は、政府当局がポピュリズムと民族主義を適切にコントロールできない内に、これを左傾化に巧みに利用した平壌と親北左派の攻勢、それに付和雷同した多数の進歩派や政治家の合作で崩れたのだ。
(第5・第6共和国を通じ進行したポピュリズムと左傾化)
朴正煕大統領の死後(1979年10月)の混乱期に軍部の力で権力を掌握した全斗煥大統領(第5共和国)は、「光州事件」に対する非難や抵抗をかわす目的もあったのか、民心を意識したいろんな「改革的」措置を取った。「改革的」には、よくポピュリズム的要素が入りがちだが、第5共和国は、「秩序と統制」のイメージの朴正煕時代の清算を望む社会的欲求を反映し、外国旅行の自由化など多くの「規制撤廃」や 「開放措置」をとった。
全斗煥大統領は、光州事件に責任のある金大中を、「自分(全斗煥)の政敵ではないはず」という甘い認識と寛容で釈放し、アメリカへ出国させた。(だが、この寛大な措置は、後に金大中はそもそも無実だったから釈放されたのだと、全斗煥自身を断罪する根拠として解釈される)。第5共和国は国の発展のための動力としてナショナリズムを利用した。ナショナリズムとポピュリズムは、時には特によく合うものだが、世の中のほとんどの処方には副作用が付き物だ。いわんや、赤化統一が至上目標の金日成が韓国社会の僅かな隙間を見逃すはずがなかった。
「反共疲労症」とでも言えるものがあったのか、ソ連のゴルバチョフ政権登場(1985年)後のペレストロイカやグラスノスチは、反共国家の韓国社会の知識人や大学生に影響を及ぼした。共産党独裁体制の緩和を目指したペレストロイカが、韓国では反共体制の弱体化・無力化に一助となった。外国旅行の自由化なども、西側のリベラル派の「韓国の民主化」の圧力を応援した。
第5共和国に対する親北左派(地下勢力)の闘争は、民衆を動かし全斗煥大統領を屈服させることに成功した。そして1987年10月、大統領を間接選出から直接選出に変える9回目の憲法改正が行われた。この改憲により第6共和国が出帆するが、「民主化運動勢力」(左派)は間もなく、国民の直接選出の前の大統領たちは正統性を持っていない、といい「過去」との闘争を強化する。ソウル・オリンピックの成功や貿易黒字などは自信過剰をもたらし、ナショナリズムはさらに勢いづいた。
野蛮な独裁者や全体主義の悪党も自らが危機に陥ると、民族主義に訴える例がよくあるが、金日成と金正日はその頃から「我々式の社会主義」や「朝鮮民族第一主義」を盛んに叫ぶようになる。南北の体制競争で“勝ち味”が完全に消えたことを認めざるを得なくなった金日成は、南(韓国)を民族主義で取り込もうとしたのである。
金日成と金正日は88年に「秋夕](陰暦のお盆)を、89年からは旧暦でお正月、端午、寒食などを民俗祭日として記念するようにする。金日成は1994年10月、平壌に檀君陵(韓国の開国神)を復元し、1997年からは韓国と同じく10月3日を「開天節」として記念するようにした。つまり、平壌側は「劇場国家」らしく、南(韓国)に対する同じ民族の「民族共助」戦術を徹底駆使するために、封建残滓として一掃した旧暦の祭日を復活させたのである。
盧泰愚大統領はソウル・オリンピックの後、左派や左派の宿主だった「文民政治家」らの攻勢に押され、全斗煥の第5共和国を断罪する聴聞会を許した。自分を大統領にしてくれた味方を裁き、所謂「民主化運動勢力」に迎合した。驚くことに、盧泰愚大統領は、朝鮮労働党の究極の目標である、韓国の赤化を指す「民族解放人民民主主義革命」を追従する「主思派(主体思想派)」までを「民主化運動勢力」として認めた。盧泰愚大統領は大陸の共産圏に目を向ける「北方政策」に取り組み、日・米との海洋同盟の管理を疎かにしてしまった。
自らを「文民政府」と自任した金泳三は、大統領就任辞で、いかなる同盟より民族が重要だと言ったが、金日成・金正日の巧みな民族主義攻勢を、また平壌側の攻勢に内応した韓国内の親北左派勢力の民族主義攻勢を見破る能力がなかった。「歴史の建て直し」という名分を掲げ、日帝の植民統治の象徴だとして旧総督府だった「中央庁」を取り壊し、結果的に金日成の対南工作に呼応した。
金泳三大統領は自覚しない内に「左翼の宿主」になり、「民主化」を徹底すると言って、左派が仕掛けた戦略、つまり、建国以来のすべての政権(反共政府)を断罪し、韓国の歴史を破壊する過去との戦いを加速させた。世界史の中で初めて、成功したクーデターを裁き、二人の前職大統領(全斗煥、盧泰愚)に重刑を言い渡したのである。
「偽保守」の裏切りで実現された左派独裁や左派全体主義
左派による地下闘争だけでなく、制度的権力により韓国社会の左傾化が加速され、本格左派政権が登場できる環境が整えられた。しかし、いくら観念論の文民政治家たちに政治の主導権が握られたとしても、共産主義(南労党)の前歴や平壌側との不透明な繋がりが指摘されてきた金大中が大統領になることは不可能だった。金大中が大統領になれたのは、真の保守を裏切った金泳三、金鍾泌(元首相)などが金大中に協力したためだった。冷戦下の韓国では政府が共産主義と戦ったので、幼い民主主義国家の韓国では真の保守主義者(特に、保守のリーダーたち)はまだ育っていなかった。保守派のリーダーとして看做された金鍾泌などが愚かにも金大中との保革連立を組んだ(日本の政治を真似したのである)。金鍾泌は権力欲で目が眩み、金大中や親北左派の正体を見損ない無視してしまった。
韓国に致命的災難をもたらした、金大中・金鍾泌の保革連立政権は、日和見主義的で、腐敗した、真の保守の徳目を備えていなかった「偽者の保守」の裏切りや、金泳三の黙認の下、保守を分裂させた李仁済の離党が無かったら、そもそも出現しなかったのである。
多くの日和見主義者が、大したこともない代償を期待して左派政権に協力した。金大中が憲法を無視、違反して法治を破壊しても、金正日へ巨額を払い、南北首脳会談(2000年)での「6.15共同宣言」という反逆に走っても積極的に抵抗し、反逆を止めようとしなかった。そもそも巨大野党のハンナラ党は、親北左翼の「国家反逆」に鈍感だった。
ハンナラ党や日和見主義の「保守」たちは、ただ次の選挙では有権者が自分たちを選択するはずだという夢想に耽っていた。多くの知識人や大半の有権者も、金大中政権が終わると政権は当然右派に戻ると期待し、左傾化の終息のための行動を起さなかった。
もちろん、金大中は自分を保護してくれる後継政権作りに全力を尽くし、2002年の大統領選で自分の後継者として盧武鉉を選んだ。保守であるはずの鄭夢準が、また左派の罠に嵌り、盧武鉉との候補一本化という狂態を演じ左派政権2期目に貢献した。保守右派は、決起すべき場面で行動しなかった。盧武鉉政権になり、親金正日勢力はついに国家的反逆システムを完成したのである。
完成の直前まで行った「南北連邦制」
青年時代から共産主義者だった金大中が、金鍾泌などを抱き込んで国家権力を掌握した時、韓国内の親金正日勢力は5%程度だったと言われる。だが、大統領就任2年後、金大中が独断で金正日と交わした「6.15共同宣言」から韓国社会の左傾化は、というより「赤化」は凄まじい速度で進んだ。
金大中は南北頂上会談のため、国家のすべてを犠牲にした。IMF管理体制の下で大統領に就任した金大中に求められたのは、何よりも外貨危機から国と経済を再建することだったはずなのに、金大中は莫大な公的資金を投じ、恰も経済が回復したかのように演出した後、すぐ、南北頂上会談の実現へと走ったのである。そして、確認できた分だけで、最低4億5千万ドルの現金を金正日に秘密裏に送ったのだ。
金大中は、共産主義者独特の価値観の持主で、自由民主主義の基礎である「法治」を無視する。彼の支持者らの選挙法違反が問題になった時、金大中は「後になって正当化できることなら、今法律に違反してもいい」と言った。体制を打倒する「暴力的革命」の価値観そのものである。
金大中は自分の歴史的「反逆」を平和への偉業として正当化するため、韓国社会の価値観(価値の基準)を変える作業に大統領の権限を無制限に動員した。即ち、政府のすべての政策は「民族第一・民族優先」の観点で、金正日を未来のパートナーとして捉えるように強いられた。軍隊でも「北朝鮮人民軍」を「敵」と呼んではいけなかった。教科書もそのように変え、国民を洗脳した。価値観を変えるとは、遡れば歴史まで書き直す、まさに「革命」である。韓国社会は価値観の転倒により、「南南葛藤」という理念的内戦の「自己免疫疾患」に罹り、金正日の人質になり「ストックホルム症候群」になった。金大中がもたらした弊害は計り知れない。
韓国の大統領の権限は、その気さえあれば反逆も可能だ。憲法第84条は、大統領は在任中は内乱罪と外患罪の他は刑事訴追を受けない、とある。大統領は絶対権力の上、無能や反逆からも保護され、処罰されない。金大中は退任後も、北側が原爆実験をやった時も、金正日のスポークスマンのように振る舞い、彼の祖国が平壌であるように行動している。
自由開放社会に反感を持った盧武鉉は、金大中の反逆をさらに完成させることを誓った。彼の法治無視は金大中以上だった。盧武鉉は大統領になるや、憲法的手続きなしで憲法的価値を否定する法律や政策を推進し、憲法の破壊に取り掛かった。彼は違法・違憲的言動で国会から弾劾されても全く反省しなかったし、首都移転法案や新聞法などに違憲判決が下されても気にしなかった。盧武鉉は「首都移転法案は違憲」と判決されても「行政複合都市建設」という変則的方法で首都分割を強行し、首都移転の理由を「支配階層の交替のため」と言った。
大統領が国民を「進歩」と「保守」とに区別し、「保守」に対しては極度の憎悪感を表し、不動産所有の「金持」には「税金爆弾」を落としながら、金正日に対しては限りなく寛大だった。日・米に対しては「言うべきことを言う」が、金正日に対しては「開放と改革も求めない」と屈従的だ。金正日が核ミサイルを増やしているのに、韓米連合司令部の解体を進め、国民的反対を無視し、次期大統領の任期中の解体を自分が決めた。
盧武鉉は口癖のように、南北関係を取り戻しができないようにする、と言ってきたが、なるほど、彼は次期大統領が決まる2ヵ月半前に、金正日に会い、「10.4平壌宣言」に署名した。この宣言、「南北関係の発展と平和繁栄のための宣言」となっているが、実状は、金日成の遺訓とされる「祖国統一3大憲章」の一つに署名したものに過ぎない。驚くなかれ、「10.4宣言」の中身は、金日成が朝鮮労働党の第6次党大会(1980年10月、因みにその後党大会は27年間開かれていない)で提案した、「高麗民主連邦共和国」が施行すべき「10大施行方針」をまとめたものだった。つまり、「10.4宣言」は、内外の反発や憲法的抵抗を招く心配のある「宣言」という形式的過程を省略し、施行段階への直行を通じ、まず経済版の「南北連邦制」を既定事実化するものだった。
盧武鉉政権の下では「国家的な反逆システム」が完成し、反逆は日常的なことになった。青瓦台・国家情報院・統一部の上層部と、平壌の労働党統一戦線事業部とは、合体したように血管が繋がり、同じ血液が流れているような状況になった。金萬福国家情報院長は大統領選挙の前日(去年12月18日)に平壌を秘密訪問、大統領選挙関連の状況を説明し、李明博政権になっても南北関係には変化はなく、対北支援も続くと安心させた、という(1月10日、中央日報報道)。
金正日と“血管が繋がった”連中を封じ込めよ
「失われた10年」を挽回すべき李明博政権に対し、内外の期待は大きい。法治や常識(価値観)の回復、停滞した経済復活、安保と同盟回復など、一言でいえば国家的関心を「過去から未来へ」という注文だ。韓国社会が停滞に陥ったのは、元を辿れば左傾化に辿り着くから、左傾化の清算から始めることになる。
新政府は155個の重点課題を挙げているが、内政で、(1)目前の総選挙、(2)政策システムと社会のすべての分野で制度化している左傾化を清算する作業、(3)経済対策、そして安保・外交においては、(4)南北関係、(5)韓米同盟の回復など外交の正常化である。
李明博は今まで運が強いと言われてきたが、大統領としての出発は順調ではない。大統領中心制では、特に単任制の大統領は、就任後の100日間が政権の成敗を決めると言われるが、2月25日就任する李明博大統領は3ヶ月以上を左派が過半数の現国会(任期が5月29日まで)と同居しなければならない。総選挙(4月9日)でハンナラ党が圧勝しても次期国会が始まるのは6月である。国会の人事聴聞会の対象になる閣僚など政府の要職の人事は勿論、重要法案の処理を、今まで敵対し、そして、これから自分が清算しなければならない前政権の左派の協力を得なくてはならないのだ。党内の基盤が弱いのも事情を複雑にする。
国家的な重要政策は世論の支持、つまり「社会的合意」が必要だ。李明博政府は選挙を通じ左傾化の清算という大命題においては国民的合意、承認が得られた。が、政策の各論になると、すべてが「社会的合意」を得たとは言い難い。選挙の時の政策は、当り前に得票を最優先するので、政策姿勢をわざと曖昧にする場合が多いからだ。もっとも、歴史を見ると、ヒトラーや金大中のように、自らの正体を隠し「合法的」選挙で選ばれた者が、執権後野心と独善で国の進路を誤った暴挙や反逆も多い。盧武鉉が最後まで執着した、首都移転や金正日との民族共助も国民的合意どころか、憲法違反の反逆である。
李明博の場合も、就任後に新しい学習による調整が避けられない。代表的公約である「大運河」(漢江と洛東江を結ぶ南北縦断運河)構想も、ハンナラ党内でさえ反対が根強い。李明博は新年記者会見(1月14日)で、「大運河」は民間資本でやると一歩下がったが、水と河の利用のことなら、投資に比べ成果を確信できない「大運河」より、金正日が「金剛山ダム」から東海へ捨てる「年間17億トンの真水」を漢江に取り返すことを大統領がなすべき急務として提案したい。
大統領中心制では大統領の意志とスタイルが、国政の方向や雰囲気、効率性を左右する。李明博は、心強くも、国家正常化を「法の通りに(法により)する」と闡明し、経営者出身らしく「実用主義」を標榜した。だが、李明博の「実用主義」の定義や基準が未だよく分からない。
現実に、権力を失った左派は、彼らが築いた「反逆のシステム」や既得権を守るため必死だ。果たして「実用主義」をもって、守旧左派勢力と、そして守旧左派が10年かけて作った「左派的生態系」の中で彼らと血管が繋がり、その悪の生態系に安住しようとする、いわゆる「中道」の日和見主義者らの、国家正常化への抵抗を克服できるだろうか。
実用主義が、左派を宥めるため妥協することはないだろうか。次世代に、国民国家としての韓国の成功を否定し、悪魔的金正日集団を民族共助のパートナーだと教えた教育の改革が、実用主義的妥協で出来る筈がない。共産党独裁の中国も人間の利己心を刺激する「実用主義」をもって経済を発展させているが、「実用主義」そのものは、自らの価値を持たない方法論の次元のものだ。先進社会での実用主義とは厳格な倫理と道徳主義という前提に基づかないといけない。だから、「実用主義」は、特に、安全保障の面では深刻な混乱を招く。
経済は、新政府が左派的諸般規制を撤廃するだけでも、よくなると期待できる。しかし、新政府がせっかく一生懸命に仕事をしても、国民の期待と違い、国民が満足できないと意味がない。したがって、大統領として先進国への道程に関して、「社会的合意」と選択を国民に確認するのが望ましい。新政府は、海洋文明と大陸勢力が対峙する韓半島の進路と国民の生の方式に対し、真摯に国民に語り、総選挙(4月)に臨むべきである。このことを曖昧にし、第6共和国の4人の大統領のようにポピュリズムに走ってはならない。
李明博大統領は、ポピュリズムと左傾化の第6共和国と決別しなければならない。勿論、難しい課題だが、このようにして総選挙で国民から圧倒的支持が得られれば、憲法改正を通じ、一流国家への未来を開く国家改造ができる。もし、李明博がこれを躊躇うと、保守派は、ハンナラ党を引っ張り、牽制する勢力として別の保守政党を摸索せざるを得なくなる。
大統領職引受委員会は、韓米同盟の回復のため、PSIへの参加や戦時作戦統制権の再論を検討した模様だ。だが、やはり、金正日と血管が繋がった現状維持派から反対の声が上がる。左派政権の10年が生んだ「6カ国協議」という生態系に縋る「金正日支援勢力」は国外にもある。韓半島の現状維持(太陽政策)を支持する米国の現実主義グループ(外交関係委員会、三角委員会、ビルダバーグなど)がいち早く李明博当選者に会い(1月4日)、“金正日の次官補”でもあるクリストパーヒルも、新政府の対北政策を現状維持へ誘導するため、李明博に会った(1月10日)。
実用主義者の李明博は基本的に「北朝鮮は失敗した体制で、金正日には問題解決の善意も能力がない」と思い、北朝鮮との連邦制などは出来ないと思う。当然の認識だ。しかし、新大統領の周りにも、金大中・盧武鉉の弟子らが多い。李明博が保守愛国勢力が求める安保中心の対北政策、さらに進んで現状打破を追求するためには、左派反逆勢力が作った「左傾民族主義の生態系」に安住しようとする勢力と戦わなければならない。幸いに大統領職引受委員会に伝統的安保専門家らが加わったが、国内外の現状維持派は李明博に「太陽政策」の継承を執拗に説得している。
北は韓国社会の保守化を恐れている
李明博は今まで対北政策に関しては、北核廃棄が先決という「非核・開放・3000」(核を放棄、開放すれば、北の所得を3000ドルまで上げる)政策を強調してきた。金大中・盧武鉉がやってきた「包括的解決」という虚構の上に立つ、「4者(南北米中)の頂上会談」や「終戦宣言」のようなことは北核の廃棄に現実的でない、と思いながらも、一方では金正日に信頼関係を期待し、400百億ドルの対北国際協力基金の造成を検討(1月4日、外交通商部の政権引受委への報告)する、などという迷走が見える。
本質的に金大中による安保破壊だった「6.15宣言」は、違憲であり反逆だった。李明博は、この金大中と盧武鉉の対北政策の「継承」に対し、新年記者会見(1月14日)で、「今までの南北間の合意は、事業の妥当性、財政の負担、国民的合意という観点から履行して行く」、「できれば金正日とソウルで会いたい」と言った。典型的な実用主義的考え方である。
常識の通じない野蛮敵独裁や全体主義体制に対する、「実用主義的アプローチ」の一つに、いわゆる「内在的接近法」というのがある。普遍的な価値基準で話しができない共産主義・全体主義などとは、相手の基準で物事を理解し、妥協するということだ。金大中と盧武鉉は、彼ら(多分ライス国務長官もヒル国務次官補も)の「対北政策」が実用主義だと言ってきた。それこそ「魂の無い実用主義」としか言いようがないが、、、。
金正日は、このような状況を観察しながら、李明博政権を手懐けるための秘策を練り、まず待っている。金正日の当面の戦略は、李明博とハンアラ党に「現状維持」を呑ませる、南側が応じないと、(「南側」が最も恐れ嫌がる!)軍事的緊張を高めると仄めかすことである。
また、必ず暴力団のように、実際には実力も無いのに脅しに出る。だが、金正日が本当に気にし、恐れるのは李明博とハンナラ党ではない、韓国社会の保守化・右傾化である。
李明博の次期政府は、暫らくの迷走はあっても、左派反逆政権とは根本的に違う。南北関係で相互主義を放棄し、人権問題を譲ることはない。親金正日の反逆者と愛国的実用主義者とは、遺伝子が違うからだ。そして、何より、韓国社会には、亡国的左傾化の20年を終息させた、この愛国的保守・実用主義の遺伝子や抗体が爆発的に活性化している。どうせ解けない複雑な結び目は斬るのが最も速いが、そのための同盟関係の強化と管理が大事だ。アメリカや日本、国際社会はどう反応するだろうか。
日本は韓国の新しい保守主義と連携を
近代国民国家が産業化を経て先進国になるまでどれくらいの時間が必要だったのか。一人当たりの所得が5000ドルになるには、英国は260年、アメリカは196年、日本は110年が所要した。韓国は史上初めて国連の決議で国民国家の出帆を認められたが、共産主義はすぐ戦争で自由民主の韓国を抹殺しようとした。しかし、韓国は諸挑戦に耐え、歴史上最強の現代化した軍隊を持ち、経済的に成長し、60年間「親米・反共」政府から「反米・親北」政権までを経てイデオロギー的には鍛錬され、反逆的左派独裁政権を選挙を通じ自力で克服した。
金大中・盧武鉉・金正日は、韓国社会がに自由民主主義の抗体ができる刺激剤だった。韓国の自由民主主義は基盤が一層強くなった。これからはこの自由と法治と民主主義を、未だ封建的全体主義時代で餓えている、韓半島の北半分へ拡大し、韓半島から野蛮と全体主義を消滅させなければならない。
韓国は今政治の季節であるが、左派との闘争で政権を奪還したハンナラ党には、皮肉にも保守を裏切ったあの背信者たちの金泳三、金鍾泌、鄭夢準などがいつの間にか陣取っている。危機の本質は、危機に対する対応能力の危機である。保守派の立場から見ると、韓国は未だ最悪の危機を乗り越えただけだ。韓国社会は未だ親北左派により歪んだ生態系の復元や、二度と反逆勢力が蘇ることがないように、遺伝子治療次元の対処が必要な課題が多い。歴史には反省と容赦の対象もあり、断罪と清算の対象もある。
韓国の保守派は、政権交替を超え、野蛮的虐殺政権との共存を認める現状を打破し、野蛮との共存を許す体制の交替を望む。新しい政権がそのような使命と目標を放棄すると、また国民から捨てられる。韓国の行動する愛国保守は保守の自浄を通じ、より強い、より生命力の永い保守になる旅を続ける。韓国の真正の保守は、次の世代を育てながら、国境を超え価値観を共有する同志を求める。閉鎖的空間の中でだけ安全と自由なことは、本当の安全と自由とは言えない。世の中を自由で安全なところにするために日韓の保守主義は連帯しようではないか。
洪熒(早稲田大学客員研究員) |