柳根一(言論人、元朝鮮日報主筆)
年末政局が(国会での)ハンマーやチェーン・ソーでとても乱れている。経済恐慌の暗雲が全世界を覆ってもいる。来年は失業者がもっと増えるという予報もある。韓国、韓国人は、再び試練と逆境の時期に遭ったようだ。しかし、ここで挫折するわけにはいかない。挫折する理由もない。韓国、韓国人は元々暴風雨を突き抜けて奇跡を成遂げた国であり、国民であるからだ。
1948年に大韓民国の憲法が制定され、大韓民国が建国したことからがまず奇跡のような事態であった。北にはスターリンが指示する階級革命が着々と進み、南にはそれに呼応(内応)する統一戦線がぱっと敷かれた難局の中でも、当時の指導者たちが右翼独裁憲法でなく、純粋な自由民主主義の憲法を制定したこと自体が奇跡ではなく何だろう? この憲法のお蔭で、今日のわれわれの民主化が可能になり、産業化が可能だった。その憲法の精神がなかったら、「維新体制は退け!」、「産業化を越えて先進化へ!」のようなスローガンらが依り所がなかったはずだ。
「6.25南侵(事変)」の時、釜山まで押されてからまた生き残ったのも奇跡そのものだった。スターリン、毛沢東、金日成が結託して押し寄せてきた時、第三者(アメリカ)の立場では、ただ対岸の火事の見物のようにすることもできた。そうしたら、今「大韓民国」はない。「民主化」もなく、「産業化」もない。ところが、トルーマンと国連が素早く動き、ソ連も韓国参戦を決議した国連安保理に欠席する失策で、大韓民国の蘇生を助けた(?)。全てが奇跡のようなことだった。
国民所得80ドル、文盲率70%、農業への依存度80%の最貧国だった韓国が、今日の世界的な産業国家へと跳躍したのも、奇跡という言葉の外には説明できない。周辺部はいつまでも周辺部として残り続けるほかはないという「従属理論家」らを学問的に破綻させた「例外」の国、例外の国民がまさに韓国、韓国人だった。
1950年代の末、ある外国人の記者は、「韓国で民主主義を期待するのは、ごみ箱でバラを求めるのと同然だ」と書いた。だが、韓国の学生、知識人、市民、そして言論は、「4.19革命」をもってその記事を見事に遣っ付けた。韓国の自由民主主義の制憲精神は、その後も1987年の民主化に至るまで、ずっとごみ箱でバラを咲かせ続けた。「民主化」においても、韓国・韓国人は奇跡のような「例外」だったのだ。
それなら、韓国的な奇跡の原動力は何だろうか? それは一言で「諦めず、放棄しない」精神だと言える。いわゆる、「カンドゥ(can do)精神」ともいうべきか―。この精神は、ちょっと逆機能を発揮もした。わが社会の政治的、社会的葛藤が格別に激烈だったことも、この「勝気さ」があまりにも強かったせいだ。だが、教育・慣行・社会の雰囲気を、「盲目的前進」から「省察的前進」へと変えながら進むことさえできれば、韓国的な「カンドゥ」精神は、もっと大きな成就を成し遂げるはずだ。
建国の直後、ある20代の国軍の連隊長は、武装反乱を鎮圧する過程で、勢不利になるや捕虜として捕らえられるより拳銃自決を選んだ。自決の直前、彼は一首の漢詩を残した。「男児が20才と奮発して起きる時であるが/棺の中に入り/青史の評を待つ。」
60~70年代に、休暇も返上し、輸出高を上げようと我を忘れて走ったある大企業の従事者は、このような文を寄稿したことがある。「私は、明け方から夜まで輸出戦線にわが身を投げた。」
民主化運動の時、ある詩人は、法廷での最後陳述で、このように言った。「詩人は、貧しい隣の人々同様に苦痛を受けながら、未来の祝福される美しい世界を夢見る人です。」
建国、産業化、民主化世代のこのすべての情熱は、今日の自由民主の大韓民国の中に溶け込んだ。これからは次世代の分(役割)だ。諦めず、放棄せず、そうしながらも自分の不足を省察することもできる賢明な次世代を期待する。
「柳根一コラム」の25年―。読者の皆様と共にしたその歳月が本当に幸せでした。そして最も幸せな時、このへんで退きたいと思います。読者の皆様、さようなら。
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