ペク・スンモク(インターネット独立新聞記者)
黄長燁先生!あなたは誰ですか?
黄長燁先生! 先生は初めから大韓民国に帰順してきた帰順者でも、生きる道を求めて地獄を脱出してきた脱北者でもありませんでした。黄先生が選択した言葉は亡命者でした。そのような先生が、脱北者としての役割を論じることは全くぎこちない感じがするのが事実です。
先生は、1997年2月12日駐北京(中国)大韓民国大使館に「亡命」する意向を伝えました。先生が当時「帰順」という用語を拒否し、「亡命」という用語に固執したのは、大韓民国に対して政府を僭称した不法武装・戦犯集団である「朝鮮人民共和国の公民」であることを認めてほしいという要求だったことと理解しました。
先生は、金日成が構築した「一人絶対殺人暴圧や飢餓恐怖の支配」体制というHard Wareに、主体思想というSoft Wareを注入し、人類史上類例がない最悪の「世襲首領独裁体制」を完成させた張本人として、金日成の寵愛はもちろん、あらゆる特典と栄華を享受してきたの方です。
600万の戦災民を出した戦犯集団の首魁の、金日成独裁体制の確立と、300万の餓死者を出した金正日体制が今だ存続・維持しているのは、先生が体系化させ発展させた「主体思想理論」の延長線上にある「首領論」と「後継者論」に基づいているという点もまた誰も否認できないはずです。
先生は、「首領は絶対的存在だから、金日成の命令と指示、そして要求を無条件貫徹せずには『死ぬ自由』もない」とする、人類史上類例がない独善的支配理論を創始されると同時に、後継者論まで作り、金正日の暴圧独裁権力の世襲を正当化してあげた1等功臣でもありました。
黄長燁先生は、労働党の思想担当秘書、宣伝扇動部長と「社会科学部長」を歴任し、特に、「社会科学部」で金日成の主体思想を体系化し、特有の「首領論」を創った張本人であると存じています。そのような先生を、大韓民国は何の躊躇いもなく自由市民の資格で受け入れてからいつのまにか11年が経ちました。
行方が分からなくなった黄長燁LIST
1997年2月12日の午後、北京発で黄長燁亡命説が伝えられるや、最も驚いたことは金泳三でも金鍾泌でもない金大中でした。先生が第三国を経て韓国へ入国日時が「97年4月20日」に決るや当時の国民会議総裁の金大中が、金泳三に「経済領袖会談」を懇請しました。
金大中が金泳三に縋らざるを得なかったのは、言うまでもなく、「労働党の思想担当秘書」まで歴任した先生が提供する、大韓民国内の金日成親子への追従・内通反逆者の名簿、すなわち無差別に暴露される場合、誰も生き残れないものとみられた「黄長燁LIST」のためだったはずです。
1997年4月1日、青瓦台では金泳三、李会昌、金大中、金鍾泌が参加した、いわゆる「与野領袖会談」が開かれ、この会談の末に金泳三と金大中の間の、約30分間の単独面談で、何の対話が交わされ何の取り引きがあったのかは金泳三・金大中の両当事者のみが知っているでしょう。
その日の「経済領袖会談」の以後、黄長燁LISTの話が増発してしまったことは知るべき人は皆知る秘密です。黄長燁LISTを根拠に在独スパイだった宋斗律(ソン・ドゥユル)が労働党政治局候補委員のキム・チョルス(仮名)という事実が明らかになったという断片的なうわさの他に、これ以上これと言った話はありませんでした。
ここで黄長燁先生に申し上げます。
今や黄長燁先生が持っていらした「LIST」の一番上に載っていた者の名前が誰だったのか明かすべきです。その名前がどんな経路で先生のLISTに上がることになったのかその自分の意志罪状が何であったかを知らせる義務があります。それが金正日以後に対する見解を表明することよりさらに重要です。
もしかしたら、黄長燁氏はListを直ちに明かせない立場であるかも知れません。黄長燁氏亡命当時大統領だった金泳三とその当時の安全企画部長だった権寧海と何人かの関係者たちが適当になくしてしまったのか、盧武鉉が国家機密を盗み出したように金泳三が隠して置いたかもしれないという気もします。
しかし、先生の記憶の中には、くっきり刻印されているはずです。先生は、大韓民国に最小5万人の親北勢力がおり、そのうち相当数は「スパイ活動」もしただろうと話したことがあるものと知っています。最近の「ロウソク暴動」で一時的でありながら無政府状態になったのも直接目撃してどんな思いをしましたか?
このような混乱の背後には、労働党の指令を受ける大物スパイがいるということぐらいは幼い子供も分かる程の常識です。北での先生の位置から見ると、小僧の主体思想派の端っくれは知る術がなかったでしょうが、大韓民国の政官界や権力核心に食い込んだ「大物」の名前は分かっていたはずです。
いまや、先生の口から彼らが誰だったのか語っても良い時になりました。その者が大韓民国の政官界や経済界、軍部や法曹界、学界や宗教界、社会文化界のどこにあろうが関係ありません。彼らがたとえ天を突く権勢家であっても、迷ったり庇わず名前の三文字だけ知らせることで充分です。
大韓民国は、先生が北から亡命当時考えたのように、何人かのスパイ奴のために滅びる虚弱な国はありません。しかし、何人かのスパイの奴らによっ、暴力示威が頻発し、社会的混乱が絶えず、学院が汚染され、勤労事業場が止まって経済が停滞に陥り、混乱が加重されるように放置するわけにはいきません。
このようなことはないだろうと思います。
わが歴史を顧みると、高句麗の長寿王(AD413~491)の時、僧侶の道琳をスパイとして百済に送って蓋鹵王(AD455~475)を囲碁で惑わし、大規模の普請を起こして国庫を枯渇させ、百済王を死に追い込んだことと、紀元前13Cギリシャが木馬でトロイアを滅亡させたことがあることを分かります。
まさか、黄長燁先生が百済の蓋鹵王を騙した高句麗の僧侶道琳とか、トロイアを侵攻したギリシャの木馬のような方だとは思いません。すでに11年も過ぎたことですが、黄長燁Listをこれ以上隠す必要も隠す理由もないという事実を繰り返し想起させてあげるためのことです。
金泳三は告白し、金大中は自首せよ!
金泳三は、1997年4月1日、青瓦台で「経済領袖会談」というものを開いた時、金大中との30分間の単独面談でやりとりした内容が何だったのかを、金大中とどんな取り引きがあったのかを、金大中の正体が果たして何だったのか、金大中が大韓民国に反逆した罪がどのようなことだったのかを、国民の前に告白しなければならない。
金大中は、黄長燁リストが遅れながらも公開されることを待つのではなく、1997年2月12日の黄長燁の亡命のニュースに並みはずれて戦々恐々としたのはなぜだったのか、急に「経済領袖会談」をしつこくねだった理由は何だったか? その4月1日、金泳三と30分間の単独面談の時の取り引きの内容は何だったのか自首せよ!
黄長燁先生は今や金大中・盧武鉉政権の10年間体験した侮辱と圧迫を一つ残らず暴露しなければならない。
[ペク・スンモク記者]hugepine@hanmail.net
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