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2008年09月05日 00:00
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序曲(7) 金鶴泳

 父は煙草を手にしながら、ながいこと黙っていた。怒りの表情がやや干(ひ)いて、その代わりにこんどはなさけなさそうな顔つきになった。
 父は、外づらと内づらがまるで違う人間だった。外では愛想のいい社交家で、内では母のちょっとした粗相にも腹を立てる怒りっぽい人間だった。日本人に対しても、父は、外と内とではまるで反対のことを口にした。商売をしている以上、外でつき合うのはほとんどが日本人である。日本人を相手にし、日本人から金を儲(もう)けているわけである。そのせいか、外では父は日本人にじつに愛想がよかった。そのために、日本人の父に対する信頼と好感は大きかった。森本さんなら、と信用組合でもよく気軽に金を融通してくれた。解放前の「創氏改名」いらい、「森本」が彼の家の日本名で、いまも通名として使っている。ただ祥一だけが大学に入ってから、通名の使用は紛らわしいから本名で通すように、という大学当局の申し出のために、東京でだけ「金」と名乗っているのである。
 そのように、外では父は日本人に愛想がいいのだが、家ではまったく別のことを口にする。
「日本人に油断するな」
「外に出たら回りの人間は敵と思え」
 表面と腹の中がまるで違っていた。外では日本人に愛想よくしていても、それによって信頼と信用を得ていても、腹の中では父は日本人に気を許していなかった。昔、植民地時代、日本人のためにひどい目にでも遭ったのだろうか。それがいまでも尾を引いているのだろうか。
「世の中が平和なときはいい。だが、平和でなくなったとき、日本人は俺たち朝鮮人に何をするか、わかったもんじやねえ」
 そうとも父はいった。父のその言葉は祥一にも首肯できる気がした。
「ははは、日本人と結婚するっていうのかよ」
 やがて父は薄笑いを浮かべながらいい、煙草を灰皿に揉(も)み消した。柔和な笑いではなく、そんなことを俺が承知するとでも思っているのかよ、といっているような、一種無気味な笑いだった。


 突然父は立ち上がった。また純子を打つつもりなのかと、それを制するために祥一も立ち上がった。純子も、母も、怯(おび)えた目で父を見上げた。
 ところが父は障子を開けて隣室に行った。箪笥(たんす)の抽出しを開けて、何か捜している音がきこえた。そして、ふたたび姿を現わした父が手にしていたのは、裁ち鋏(ばさみ)だった。祥一は戦慄(せんりつ)をおぼえた。それで純子を刺すというのだろうか。
「アボジ(父さん)」
 祥一が叫ぶようにいうまもなく、父は純子の後ろに立ち、片手で純子の髪を束ねてつかみ、鋏を手にした一方の手で、一気に純子の髪を断ち切ってしまった。
 あっという間の出来事だった。
 断ち切った髪を父は、屑籠(くずかご)に投げ棄て、鋏を茶箪笥の上に置いて、また自分の座蒲団に戻った。
「こうすりゃあ、もうその男とつき合えめえ」
と父はいった。
「あんまり親を舐(な)めるもんじゃねえ。日本人との結婚なんか、俺が許さねえ」
 祥一も母も茫然としていた。純子も、父の突然の仕打ちに対する衝撃からか、泣きもせず空ろな表情でじっとうつ向いていた。また部屋の中に沈黙が流れた。犬の遠吠えの声がふたたび祥一の耳に甦(よみがえ)った。

第3188号 1984年6月27日(水曜日) 4面掲載

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