鄭新軍部の登場には当然、抵抗があった。「5・16革命」後、反革命勢力の抵抗があったように、「12・12」で去勢された旧軍部の将星たちは、全斗煥を中心とする新軍部の打倒を目論んだ。ワシントンはポスト朴正煕時代を安定的に導く勢力を探していた。
非正規陸士が中心の反全斗煥勢力は、駐韓米軍とワシントンの支持を得るため1979年12月末から80年5月下旬まで米側と接触を試みた。自分の作戦統制権を侵害されたと怒ったウィコム在韓米軍司令官は、全斗煥を憎悪した。国軍創軍元老の李亨根予備役大将もウィコム司令官に反全斗煥クーデターを提案したという。
だが、韓国政局を注視してきたワシントンは結局、安定を求める中産層に支持される全斗煥を容認することに最終的に決定(80年6月22日)した。このような事実は、秘密解除された米当局(国務省、CIAなど)の文書や関係者の回顧録などで分かる。
「5・18光州事態」は、3金など政治家らの過度な権力欲と崔奎夏政府の危機管理の不在が招いた悲劇だった。政治・社会的混乱、経済低迷の中、これを狙った平壌側の南侵の兆しなど安保不安まで、韓国社会は総体的混沌に陥った。混沌を決定的なものにしたのは、民衆蜂起を通じて政府接収を言い放った金大中だった。彼は「戒厳令即時解除」「維新残党退陣」「全斗煥・申鉉碻の辞退」「政府主導改憲中止」などを掲げ、過激闘争に出た大学街にデモや蜂起を組織・扇動する資金まで提供した。デモ鎮圧警察が暴徒によって殺されるなど、政局は無政府状態に陥った。
一方、この混乱を収拾、難局を打開すべき最終責任者の崔奎夏大統領は、何の決断も下さなかった。それだけでなく、突然「2元執政制改憲」を提案、自分の執権意欲を表わした。彼は、青瓦台本館の居住空間を自分が入居するため大々的に修理した。彼は全斗煥保安司令官を中央情報部長署(副総理級)に任命(4月14日)し、維新勢力の結束の中心となる申鉉〓国務総理を牽制した。彼は米国など自身を支援してくれる勢力がないことを分かって初めて執権意欲をあきらめる。
無政府状態の政局を収拾するため開催された全軍主要指揮官会議(5月17日)は、非常戒厳の全国拡大(5月17日24時付け)を決定した。戒厳司令部は政局混乱に責任のある政治家などを検挙、全国大学に休校措置を下した。
「5.18光州事態」は、前夜の休校措置を知らず登校した全南大学生たちが校庭の戒厳軍(特戦司7旅団)と些細な摩擦から始まった。現場近くに示威解散と鎮圧任務を持つ警察機動隊があったが、彼らは任務を放棄した。3・1師団長の鄭雄は、デモ隊解散の基本を無視、愚かなことに少数兵力の戒厳軍に強硬鎮圧と示威者全員検挙を命じた。指揮官の誤った状況判断と命令、不適切な部隊運営で戒厳軍とデモ隊が激しく衝突した。悪性デマが暴動を拡大させた。
警察が逃走するや光州一帯は無政府状態となった。暴徒らは武器庫を襲撃して武装し戒厳軍を攻撃し始めた。武装デモ隊はスパイなどが収監された刑務所を夜間に執拗に攻撃した。武器返却など暴動を収拾しようとする努力があったが、武装闘争主導勢力によって拒まれた。
無政府状態は5月28日、戒厳軍によって鎮圧された。公式報告書では、死亡者が軍警22人、民間人166人(身元不明者含む)だ。検視結果、民間人死亡者の80%程度の銃傷死亡者の3分の2は、暴徒が武器庫から奪取した銃器によるものと記録されている。
(つづく) |