本稿も70回を迎え、そろそろ筆を置こうと考えていました。
編集者からも3月末までとの話もありました。そろそろまとめなければなりません。
そこへ昨年の年末(2026年)、久しぶりに韓国を訪問したところ、韓国の太平洋戦争遺族会(「遺族会」)を中心に〓木弁護士(私)に「ノーベル平和賞」をという話があるというのです。
きっかけは、慰安婦問題で有名な「韓国挺身隊問題協議会」(「挺隊協」)の元理事長の尹美香氏が寄付金の横領などの罪で刑事裁判の被告人となり、有罪となったのですが、その尹美香氏を支持する人も多いらしく「尹美香にノーベル平和賞を」との運動が起き、1万人が署名したというのです。この挺隊協と長年対立してきた遺族会が、「我々はノーベル平和賞に〓木弁護士を推す、尹美香が1万人の署名なら我々は100万人の署名を集める」というのです。
ノーベル平和賞の受賞者の中にはフリチョフ・ナンセン氏の事例があります。1920年、国際連盟の難民高等弁務官に就任したナンセン氏が戦争難民のために「ナンセンパスポート」と呼ばれる証明書を発行し、難民の帰国に便宜を図ったのです。
この点、規模は違いますが、私も88年からサハリンの難民ともいうべき残留韓国人に対して、日本への招請状を送りました。日本入国後は韓国からその親族を呼んで40数年ぶりの再会を果たすという事業でした。88年から90年までに約1000人を日本に呼んだのです(本稿1より)。
その後、ロシアと韓国は国交が正常化し、日本政府が提供したチャーター便でサハリンのユージノサハリンスクとソウルの間を直接往復できるようになり、約20年間、延べ1万7000人もの故郷訪問事業が続けられました。さらに私たちは87年に日本の国会議員の会(「サハリン残留韓国・朝鮮人問題議員懇談会」)を設立し、日本政府も永住帰国者(サハリンから韓国への帰国者)のためのアパート建設に予算(32億円)を拠出したのです。これにより、約4000人もの希望者が韓国に永住帰国出来ました。永住帰国後の生活費は韓国政府が負担しており、帰国者は概ね満足しているようです。
このようにサハリン残留韓国人問題に取り組んでいた私に85年頃から韓国にいる広島・長崎の被爆者の団体から運動への協力依頼があり、私は日本の協力者と東京に在韓被爆者市民会議を設立しました。また、日本弁護士連合会の在韓被爆者問題委員会の委員長となり、主に渡日治療の延長を求めて日本政府と韓国の両政府と交渉しました。
日本政府は渡日者の渡航費の負担には前向きでしたが、韓国政府は韓国でも治療ができるとして渡日治療が打ち切られたのは残念でした。
他方、私はこの間、一切支援のなかった北朝鮮の被爆者のため、在日の朝鮮人被爆者と協力して、北朝鮮を何度か訪問して調査をしたのです。北朝鮮にも千数百人の広島・長崎出身の被爆者がいて苦しんでいました。皮膚がただれたため硫黄を燃やした部屋に入って煙を浴びる治療をしていた人もいました。その北朝鮮の団体では公平な支援を得るために日本で裁判をしたいと意向を表明してくれたのですが、上の組織が許可を出さず、結局裁判までには至りませんでした。
そして、92年に韓国太平洋戦争犠牲者遺族会の裁判を担当することになったのです。この裁判の原告45人中に9人の元慰安婦が参加したことで大きな注目を受けました。この裁判提起後に各国の戦争被害者を原告とする約100件の裁判が続き、「戦後補償」は日常語となったのです。 |