排仏派に勝利した崇仏派の蘇我馬子は絶大な権限を有するに到ったと推測される。
崇仏派の勝利により、新政権が樹立されたと見るべきだ。その新政権は、温祚百済息のかかった政権で、それはまた、倭地に置ける百済が、沸流百済から温祚百済に意味が変容することでもあった。つまり、倭=沸流百済は、温祚百済に飲み込まれたということだ。
四天王寺が百済様式であることは、崇仏派の戦いが、蘇我馬子個人の戦いではなく、韓地百済(温祚百済)と、排仏派の倭=沸流百済との国家間の戦いであったことを示唆する。換言すれば、蘇我氏は、韓地百済の全面支援を受けて、物部守屋討滅戦に臨み、仏教流布は、支配者の交替を意味する革命であったということだ。当時の仏教指導者は、百済からの渡来人であったことも留意しておきたい。
〔推古紀〕
推古朝は百済仏教王朝であった
崇仏派の蘇我馬子が、排仏派の物部守屋らに勝利したことにより、倭国を新しく仏教国にするという革命が成功したことを明らかにした。さらに、蘇我氏は韓地百済(温祚百済)の代弁人であり、それは、蘇我氏と韓地百済が一体となって、倭=沸流百済を飲み込んだ革命であった。
倭国を仏教化するという革命に勝利した蘇我馬子は、当然に倭国の大王に匹敵、あるいはそれ以上の権限を有する存在になっていたはずで、仏教を流布するという大義名分で、それを阻害するものは大王であっても弑する権限を有していたと思われる。仏教流布の大義名分によって私腹を肥したであろうことまでは否定できないのだが、排仏派に勝利した崇仏派の蘇我馬子は絶大な権限を有するに到ったと推測される。
蘇我馬子発願の法興寺(飛鳥寺)や聖徳太子発願の四天王寺が百済様式であることは、崇仏派の戦いが、蘇我馬子個人の戦いではなく、韓地百済(温祚百済)と、排仏派の倭=沸流百済との国家間の戦いであったことを示唆する。当時の仏教指導者が、百済からの渡来人であったこともそれを傍証する。
推古朝は百済色一色の王朝であることを明らかにした。蘇我馬子ら崇仏派の勝利は倭国を仏教国にする革命であったのだが、推古朝はその集大成であったと言っていいほどの百済仏教王朝であった。にもかかわらず、日本史学界の”韓隠し”によって、ベールに覆いかぶされてしまい、秦河勝を中国人にしてしまうなどの歪曲した視点によって、ありもしない中国の影響を強調している。
推古の都有地である飛鳥の地は、百済から渡来してきた数多くの学者・政治家・技術者らによって開拓された地であり、百済文化の花が咲く王城の地として定着したとされる。 |