朴正煕大統領が金在官に会ったのは韓国産業史において決定的瞬間だった。当時、韓国には巨大な総合製鉄のことが分かる人材が全くいなかった。金属学を勉強し世界屈指の製鉄所の総合企画室で働いた金在官は、韓国が頼れる唯一の人物だった。
彼は、ミュンヘン工大でドイツ軍の艦砲や大砲の金属組成を勉強していた。重機はタンク製造と同じだった。造船は、タンカーと同時に軍艦も作った。
朴大統領は金在官を記憶した。金在官は、政府が1966年KIST(韓国科学技術研究院)設立のため海外の科学者18人を1号誘致科学者として招聘するとき、帰国して第1研究部長職を務める。金在官は祖国の産業化、重化学工業建設の青写真を描いた。彼が勉強した機械・鉄鋼・金属学は大韓民国の製鉄所と自動車産業になって実を結ぶ。彼が直接設計(第1高炉)し区画した浦項製鉄(POSCO)の工場配置は、生産規模が9倍になる20年間、基本設計の変更が必要なかった。
朴大統領は、金在官の青写真を実現する責任者として5・16革命の主体勢力の中でも特に強直だった朴泰俊を選択した。朴大統領は製鉄所の建設を日本からの請求権資金で賄うことにした。日本側は資金が妥当に執行されるのを立証するよう要求した。金在官に、日本側に浦項製鉄の妥当性を納得させる任務が与えられた。
30代半ばの金在官は、東京で開かれた「対日請求権資金」交渉の全面に出た。日本側は、10年・20年後の韓国産業が直面する自動車や造船などに使われる特殊鋼まで作る年産103万トン規模の製鉄所建設案を「不可能だ」と反対した。だが、日本は結局、製鉄所のすべてが分かる金在官の方案の妥当性を認めた。
KISTの金在官は「韓国機械工業育成方案」を報告、朴大統領はこれに基づいて「重化学工業化宣言」(1973年)をした。その骨幹は銑鉄・特殊鋼・重機械・造船だった。銑鉄と特殊鋼は産業の米で、同時に武器を作る材料だ。韓国の防衛産業の土台が作られた。朴大統領が金在官をADD(国防科学研究所)の副所長に任命した日、当時、沈汶澤所長、金在官、KISTの造船担当の金燻喆の3人は南海の閑山島の忠武公の祠堂を訪ね「国のため命をかけ戦いに臨んで後退せず国防技術を完成する」と誓ったという。
朴大統領は金在官を商工部の初代重工業次官補に任命した。金次官補は、朴大統領に単独面談を要請し「韓国型乗用車の量産化」計画を採択させた。多くの企業家が造船や自動車に挑戦しなかったが唯一、鄭周永会長が「やる」と手を挙げた。現代自動車と現代重工業神話の始まりだ。彼らの挑戦によって、韓国は農業国家から工業国家に変わった。
朴正煕政府は恐ろしい執念で経済開発と国土開発を推進した。5カ年計画に反映されたインフラ建設が軌道に載った。インフラは当面の需要ではなく、長期的ビジョンに沿ってアップグレードさせていった。
超高圧送変電施設竣工(77年)、月城原子力1号機起工(78年)、忠州多目的ダム起工(同年)、総合行政情報網のための行政電算化10カ年計画(同年)、全国土土壌精密調査完了(同年)、長距離自動公衆電話開通(同年)、第24回国際機能オリンピック大会開催(79年)など。
大韓民国の奇跡の成就には数多くの英雄がいた。だが、この英雄たちの献身が実を結ぶには、何よりも指導者のビジョンと資質、すべての資源を効率的に動員、管理する能力が不可欠だった。
(つづく) |