東京郊外の福生市にある閑静な寺院・大行寺。ここには、祖国の独立と統一に生涯を捧げた元心昌義士(1906~1971)の墓碑が祭られている。その傍らには、元義士が在日本大韓民国民団(民団)の団長を務めていた当時、6・25戦争に送り出した在日学徒義勇軍の戦没者135人を追悼する忠魂碑も建てられている。
これは偶然ではない。激動の時代を共に生きた指導者と青年たちの、崇高な歴史の帰結である。元心昌義士は、日本統治下の「上海・六三亭義挙」を主導した独立運動家だった。解放後は日本に渡り、在日同胞社会の求心体である民団の創設に関わり、中央団長も歴任した。
第11・12代民団中央団長を務めた1951年4月から1953年7月、祖国では6・25戦争が続いていた。戦争勃発直後の1950年9月、民団は在日青年による学徒義勇軍の派遣を決定。中央幹部だった元義士も、この歴史的決断に関わった。
団長として元義士は、自ら戦火の中にある祖国の地を踏んだ。焼け野原となった祖国の惨状を目の当たりにし、大きな衝撃を受けた彼は、日本に戻るやいなや「戦災援護事業委員長」に就任。戦争被害者の救援活動に全力を注いだ。送り出した若者たちの犠牲と痛みは、彼の背に重くのしかかっていた。
戦争の爪痕は、彼に「平和統一」という生涯の課題を与えた。1955年1月、国内外初の統一運動組織「南北統一促進協議会(通称・統協)」を設立し、後半生を統一運動に捧げるに至ったのは、6・25の惨状を現場で目の当たりにしたことも影響を及ぼしていたのだろう。
祖国に対する元義士の切なる思いは、1971年6月21日夜、生涯最後に遺した手紙にそのまま記されている。
「もし私がこのまま目を覚ますことがなければ…大行寺の崔裕尊住職に頼み、裏山の奥深くに埋葬してください。春や秋には小鳥が訪れ、あるいは蝶が舞い、孤独な私を慰めてくれるかもしれません。ですから、墓石も名前もいりません」
簡素な葬儀を求める遺言の末尾には、さらに深い響きがあった。
「不幸にも、苦しみにあえぐ民族の多幸を見届けることなく旅立ちます。大きな罪を背負い、民族の先人たちのもとへ向かうことに不安を覚えるばかりです」
人生の最期まで民族の分断を悼み、統一された祖国を見届けられなかった自らを「大罪を背負った存在」と見なしたのである。遺言に従い、彼の遺骨は大行寺に納められた。祖国の戦場へと送り出した若き戦没者たちのもとへ――。
ゆえに、大行寺は単なる寺ではない。独立運動の精神と在日学徒義勇軍の犠牲、そして祖国統一を願った愛国者たちの夢が染みついた、歴史の現場なのだ。
(ソウル=李民晧)
「大行寺」に建てられた元心昌義士の墓碑 |