「白熊」(K1)開発に成功した国防科学研究所は、「白熊」の短所を補完し慣性誘導で飛行するK2(玄武)の開発に着手した。地上統制所からの無線誘導指令で飛行するK1(白熊)に比べて玄武は慣性航法装置(INS)ミサイルが目標を打撃する方式だった。
現代のミサイルはINSが基本だ。INSは様々な方法で発展したが、当時は機械式技術だけだった。だが、この機械式のINSを独自開発するには15年かかると予想された。米、英、仏からINSを購入しなければならなかったが、米国が輸出禁止品目として強力に統制するため購入できなかった。米国は航空機を開発していた日本にはINSを販売したが、韓国には販売を禁止した。
ところが、李景瑞博士がラジオや航法装置などで有名な英国のフェランティ(Ferranti)社を訪問したとき、INS技術を販売する意思があることが分かった。李景瑞博士はその場で数百万ドルのINS技術購入を決定した。英国国防部の科学顧問にも会った。問題は米国だった。そのしばらく前に韓国がフランスから政府間で核再処理施設の導入を契約したが、米国の圧力で霧散した事実を知っていた李博士は、韓国にINS技術を販売した事実を英国が米国に通知する義務があるかを尋ねた。
フェランティ社は、慣性誘導装置の航法装置に米国技術が入っているため、通報義務があると言った。そして最大限遅らせた場合の通報までの期間がどれくらいになるか尋ねると、6カ月以内に通報せねばならないとのことだった。李博士は、2つの条件を付けた。(1)韓国が購入した後6カ月になる日に米国に通知すること(2)その6カ月間に韓国の技術者たちに技術移転を完了するといった条件だった。フェランティ社は承諾した。
国防科学研究所は直ちに20人の研究員を英国に派遣し、6カ月間のうちにINS技術を完全に習得した。国際的に非常に敏感な問題だったため青瓦台にも報告せず、秘密裏に処理した。韓半島の軍備拡散を最大限抑えてきた米国側は、韓国がINS技術を確保したことが分かると驚いた。米国の牽制と報復は執拗だった。
李景瑞博士もすべてが順調だったわけではない。ミサイル開発初期段階で一時ミサイル開発から外され、国防科学研究所を辞職、大宇グループに移った。後で事情が分かり激怒した朴正煕大統領が、国防長官に指示して李博士を復帰させた。李景瑞博士は「朴正煕大統領が開発責任者に全面的に権限委任をしなかったら決して成功できなかった、夢のような話」と回顧した。
白熊ミサイルの開発に、李景瑞博士や洪在鶴博士などと共に核心的役割を果たした具尚會博士は、朴正煕大統領が中央情報部長の金載圭によって暗殺された後、米国の圧力で李景瑞博士などミサイル研究の核心人員が粛清された後にも国防科学研究所に残った。李景瑞博士を継いで誘導弾開発の責任を引き受け1982年10月、玄武ミサイルの試験発射を成功させた崔浩顯博士も、同年末の国防科学研究所に対する2次粛清のとき、研究所を去った。韓国の誘導弾・ロケット開発能力は焦土化した。これは民間の宇宙開発のための研究開発基盤も崩壊した。
韓国の玄武ミサイルの射距離が180キロメートルをはるかに超えると考えた米国側は、韓国の技術資料と検証を執拗に要求した。結局、韓国政府は90年10月8日、外務部北米1課長の名義で、ミサイル開発の自律規制指針の遵守を再確認する書簡を米国務省に送った。 (つづく) |