大和朝廷は、沸流百済に籠絡された和珥氏の宮居であった可能性も生じてくる。仁徳を継いだ履中は、住吉仲の謀反事件に遭遇し、宮居が焼かれたのだが、履中は難波にあったその宮居を河内国の埴生坂から望見したということだ。それは、宮居が大和になかったことを表している。
反正朝の宮居も河内国の丹比柴籬宮であった。允恭は、大和朝津間(朝妻)の地と縁が深かったと思われるが、その地は応神朝に渡来した弓月王一族の集住地であった。安康朝には血なまぐさい暗殺事件が起き、無政府状態であったと思われる。
市辺押磐王を謀殺して誕生した雄略朝は、一転して強権政治になったが、雄略の背後に百済昆支王の影が見え隠れし、百済系王朝が復活したと考えられる。排斥された新羅系山陰王朝の勢力は、清寧朝や顕宗朝、仁賢朝で巻き返しを図ったことから、混乱が増幅され、大和朝廷はあってなきがごときの状態になったろうと思われる。
そして武烈朝に、その混乱は極大化したと考えられ、大王・太子・王子がみな死んだという「百済本記」の記事がそれを物語るものだとされるが、そこへ登場したのが応神の5世孫とされる継体だ。近江に発し、山城を経由して大和へ入るのに20年以上もかかったということだ。それは、都城としての大和を重視していなかったとの見方もある。
血統による正統と権威が絶対視された時代
継体を支援した勢力は、和珥氏や息長氏で、その背後に彦坐王国の影が広がっていることを明らかにし、彦坐王はアマノヒボコ(天日槍)と同人(神)格とされるから、継体の支援勢力はアマノヒボコの後裔氏族でもあるということになる。
ところが、『日本書紀』は彦坐王国の伝承を黙殺しているとされ、アマノヒボコも軽視されていると指摘されている。それは、百済系大和王朝が樹立される以前に、アマノヒボコ族を中心とする新羅系山陰王朝が存在していたということであり、万世一系の視点からすれば、新羅系山陰王朝が存在していては、百済系大和王朝にとっては都合が悪いということから、彦坐王国やアマノヒボコ族のことが、黙殺あるいは軽視されたと考えられる。
しかし『古事記』はそうではなく、彦坐王の系譜を詳述している。つまり、4世紀における倭地は、彦坐王国や丹波道主王国など新羅系山陰王朝が先行し、その先行勢力が南山城や北大和に進出し、初期の大和王朝、つまり新羅系山陰王朝を樹立していたというのだ。それはアマノヒボコ(天日槍)王朝と言い換えてもよいだろう。明治時代の曲学阿世の輩らは、任那を日本の属領と主張しているが、本末転倒も甚だしく、まさに悪意の論述というものだ。倭=沸流百済という当時の状況からみれば、任那の彊域は、かつての沸流百済の領域であった地域のはずだ。 |