渤海国は7世紀から10世紀、日本の奈良時代から平安時代に現在の北朝鮮から中国東北部(旧満州)、ロシアの沿海州に建てられた大きな国であった。韓半島では統一新羅と並ぶ「南北朝時代」と例えられ、中国では「海東の盛国」と称えられた。それにもかかわらず、現在に残る資料は少なく、その盛国ぶりは今一つ判然としない。
渤海国は四方に五つの都があったが、そのうち比較的調査の進んでいる上京竜泉府をはじめ東京竜原府、中京顕徳府、西京鴨緑府は中国にある。現在の中国にとって渤海国は靺鞨族の国というスタンスで、韓国・北朝鮮側の高句麗遺民が建てた国という歴史認識とは違う。中国の華北では3世紀に五つの異民族(夷狄)が16もの王朝を建てた時代があったように、数多くの周辺民族が盛衰を繰り返した。その数が多すぎ、なかなか研究が進まないのも当然かも。
研究の遅れは中国領内だけではない。北朝鮮領内にあった南京南海府にしても所在地が特定されたのは、ほんの35年ほど前のこと。南部の元山から北東へ150キロほどの新昌がその地だという。小さな港町から川に沿って5キロほど登った村落に、東西500メートル、南北300メートルほどの土塁で囲まれた都市遺構があり、そこが南京であったと認められた。その村の近くには椿の群生する森があるという。椿は日本原産で韓半島には自生していないはず。それは日帝時代に植えられたものではなく、渤海と日本の交流時代に椿油を作るために植えられたものと推測されている。
私が持っているソウルの国立中央博物館の簡単なカタログに渤海国関係の遺物が紹介されているが、建物を支える竜頭や高麗犬、鬼瓦や軒瓦、仏教関係の石碑が主。高句麗時代の遺跡からは見事な壁画や豪華な金製品が多く見つかっているのに対し、なんとも地味。韓国は立地上、手が出せないから無理もないが、北朝鮮や中国に凄い発掘品があるかは分からない。
一方、日本側には渤海国との交流が克明に記録されている。最初の使節24人のうち16人が蝦夷に殺され、8人だけが平城京にたどり着いた話は前回書いたが、35回におよぶ渤海使の来着・出航地・大使や副使の名・入京月日をはじめ、それに伴う関連事項(トピックス)などが分かる。740年の第2次使節もなかなかドラマチックであった。大使の乗った船は難破。副使の船だけ無事到着したのだが、その船に日本の遣唐使の平群広成が乗っていた。平群は帰国するために乗っていた遣唐使船が難破しベトナムまで流される。助かった4人が唐に戻り、留学生として渡り、科挙に合格し中国で出世した阿倍仲麻呂の仲介で渤海船に便乗していたというのだ。
使節が持って来た将来品の記録もある。
大虫という呼び方の虎皮をはじめ、貂・熊・豹の毛皮と朝鮮人参・蜂蜜などであった。毛皮類は日本の貴族を夢中にさせた。平安時代の政治・宗教・生活のルールを定めた延喜式に”豹の毛皮の衣は参議以上の超エリート、熊皮の障泥(馬の鞍につける泥除け)は五位以上の貴族しか使用はダメ”と公式に規定している。
日本側の返礼品は絹・綿・綾など繊維製品が主体だったが、749年に陸奥で黄金が発見されて以来続々と産出。777年の返礼品に黄金百両の記載が出てくる。ちなみに日本が779年を最後に新羅との国交を絶った理由のひとつに、新羅から黄金をもらう必要がなくなったという現金な理由があったともいわれる。
驚くべき渤海国への贈り物があったことも書き加えておきたい。聖武天皇の哀悼のために渤海王・大欽茂(文王)に代わって訪れた第4次使節に対し、時の淳仁天皇が宮中の女楽(女性の楽人)をプレゼントしている。中国の新唐書・渤海伝にはその大欽茂王が唐の代宗皇帝に日本の舞姫十数名を贈ったという記載があり、これは同じ娘たちであろう。淳仁天皇が贈った女楽師が渤海で十数年過ごした後、唐に贈られたことがわかる。あまり知られていない話である。私も今回あれこれ調べて初めて知った。三国に翻弄された娘たち。よほどの才能があったのだろうが、一見華やかそうでも古代史の側面として胸に詰まる話である。
前回、新羅討伐に躍起になっていた奈良朝の絶対権力者、藤原仲麻呂が渤海と組んで新羅を挟撃しようとしたのではないかと推理したが、淳仁天皇は仲麻呂にコントロールされた傀儡天皇であったから女楽師の贈り物は仲麻呂の入れ知恵であったろう。いかに仲麻呂があの手この手で渤海の気を引こうとしたのかの証明になる話だ。
孝謙女帝との対立で仲麻呂の新羅進攻計画は頓挫、クーデター失敗の後、淳仁天皇も天皇位を剥奪され淡路島に流される。淡路廃帝と呼ばれている。
<つづく>
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日本原産の椿。古代、椿の実でつくる椿油は不老不死の薬として珍重された。日本側の返礼品にも海石榴油(つばきあぶら)がある。旧南京にある椿林は渤海でもその油をつくろうとした名残であろう (五島市提供)
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