国が滅び散り散りになった高句麗遺民は、わずか30年後に故地に帰ることに成功し、渤海国を建国する。その建国は”靺鞨族と力を合わせて”とあり、指導者の大祚栄は現在の韓国では高麗人となっているが歴史書によって、出自が曖昧に記述されている。旧唐書は「高句麗から派生した種族の出身」。新唐書では「高句麗に付いていた靺鞨族」となっている。どうも高句麗人か靺鞨族かの判断が難しいことがうかがわれる。それなら靺鞨族とはどんな種族かを勉強する必要がある。
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古代中国は周辺の諸民族を東夷・北狄・南蛮・西戎と呼び侮蔑した。民族の名も「豸偏」「貉偏」「虫偏」「犬偏」……あるいは奴や卑、馬などひどい名をつけ野蛮人扱いした。日本人は倭だが、人偏が付き人間扱いされているのでまだいい方だった。倭は”背中の曲がった小さな人”という意味があるそうだが、造りの委に意味もあり、「従う様」という解釈もある。命令に従順な民族である、族長の指令で行儀よく並んで歩く姿が印象的だったのか…。テレビでよく映される検察のガサ入れの時の行列はまさにそれ。よく特徴をとらえた命名だと個人的に思う。
一方、韓の意味はというと”井戸の周りの囲い”とある。甘露という意味もあるらしいがよくわからない。なにより、紀元前、秦の始皇帝に滅ぼされた国の中に韓という名の国があった。周辺の民族を侮蔑して呼ぶことを常にした中国にとって同じ名を与えることは他に例のないことである。一応、馬の文字(馬韓)を付け、取り繕ってはいるが…。
話が横道に逸れたが、靺鞨族は「革偏」が付くので、動物の革の着衣が特徴であったのであろう。韓半島北部から中国東北部、さらにシベリアにかけて広く分布していたツングースの一派であり、隋唐時代の呼び名だ。半農・半牧、川や海の近くでは漁労、山中では猟を生業にしていた。3世紀末に編纂された魏書東夷伝に韓半島中北部から北朝鮮、ロシアの沿海州にかけてあった東沃沮、〓婁、〓は高句麗の影響下にあり、後に併合されたのだから靺鞨族もまた高句麗人であったといえる。そもそも高句麗人のルーツは〓族だと言われる。
高句麗圏外にいた靺鞨族は粟末・安車骨・号室・黒水・白山など7部に分かれ、このうち粟末と白山が高句麗に隣接し行動を共にしていたという。アムール川(黒竜江)周辺に住み、現在は赫哲(ホジュン族)とよばれる少数民族は黒水の後裔だと思われるが、ごく最近まで鮭やイトウ、チョウザメなどの魚皮で衣類や靴を作り魚皮套子と呼ばれている。
このような原始的な暮らしを最近まで守って来た種族もいれば、時代と共に名を変え、女真↓満州族となった靺鞨族は中国の壮絶な民族間の戦いに勝ち抜く。12世紀には北宋を滅ぼし黄河以北に金朝を建国。17世紀、漢民族の明朝を滅ぼし中国全土を支配した清王朝もまた靺鞨族である。
日本列島にも靺鞨族の足跡が残っている。8世紀初め、大和朝廷は蝦夷(えぞ)討伐のための軍事拠点として多賀城(宮城県多賀城市)を置いたが、762年に建立された記念碑がその地にある。「壺 碑」という。そこに刻まれている内容がとても興味深い。各地から多賀城までの距離が印されている。
「京を去ること一千五百里、蝦夷国の界を去ること百二十里、常陸国(茨城)の界を去ること四百十二里、下野国(栃木)の界を去ること二百七十四里、靺鞨国の界を去ること三千里」とある。
靺鞨の文字があるのは驚きだ。大宝令で一里は今の540メートルに決められているから国内の距離感はなかなかのもの。一方、新潟からウラジオストクは飛行機でたった1時間半、1000キロはないであろう。三千里は遠い…というイメージだろう。その石碑は陸奥の人々が大陸と通交していたことの明白な証拠である。
石碑ができる100年以上前に東北から北海道に初めて遠征した阿部比羅夫が粛慎(ミシハセ)という謎の民族と遭遇して戦ったと日本書紀にある。粛慎もまたツングース。後の靺鞨族である。偶然遭遇するほど、沢山の侵入があったのだろう。
古代、海に道があったとしたら韓半島から九州・出雲への道は表通りだが、大陸から陸奥にも裏道…いや、小道があったのだろう。
蝦夷と呼ばれた人々の正体は諸説ある。縄文人説、アイヌ説、あるいは倭人の非稲作民説などよくわかっていないが、そこに対岸のツングースの地から渡って来た人々、つまり靺鞨の血が濃厚にあるのは確実だ。
そして渤海建国により、その小道は表通りとなる。
<つづく>
 | | 日本のカブは西日本が中国種、東日本がヨーロッパ種に分かれる。東北のカブはツングースの地から直接入ったのだろう。焼き畑で作られる山形伝統の温海(あつみ)カブやソバもまたそのようだ
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