朝鮮総聯の設立には俺も尽力した、何と言っても宮本顕治直系の日共国際派だったから、と金達寿の態度は朝鮮総聯で大きかった。
それもそのはず、朝鮮総聯の幹部には神奈川県の活動家が多かった。それには在日のタウンが多くあった背景もある。ジャニーズの東山紀之の育った町は川崎のコリアタウンであった。但し、東山紀之はコリアタウン生まれではない。
コリアタウンは日本人も受け入れて拡大する。朝鮮大学校で副学長を務めた申在均は、横浜市鶴見区の朝鮮人集落をキョンサンドータウンだと称した。あそこは慶尚道そのものであった、と回想する。そのキョンサンドータウンは琉球タウンの近くに立地している。金天海は慶尚北道の人だったが、京浜地帯は彼の活動地盤であった。言葉が通じたのだ。
京浜運河を開削し、横浜から川崎一帯の海岸地帯を埋め立てて工業地帯を造成した浅野総一郎は沖縄から4万人の労働者を集めて来たそうである。さらに人手を朝鮮半島に求めていく。それによって朝鮮人集落が形成される。
小泉又次郎邸近くのコリアタウンから金達寿、張斗植そして立原正秋などが育っている。この横須賀のコリアタウンが戦後日本の火炎瓶闘争の発祥地ともなり、「帰国運動」を進ませた土地でもあった。ここもコリアタウンと言いながらも、実質はキョンサンドータウンであった。
小泉又次郎の小泉組は横須賀の海軍基地の出入り業者であった。幾つかの海軍飛行場の建設は小泉組が担った。小泉組は労働者を慶尚道に求めた。金達寿、張斗植そして立原正秋も慶尚道の男である。
張斗植はよくトラック島の飛行場を俺が造った、と自慢した。小泉組が請け負ったのである。慶尚道の男は一般に日本人よりも身長が高かった。それに日本で言う「セオイコ」を使いこなしたからだ。一輪車が登場するまでの土木事業は、「チョウセンセオイコ」が担っていた。
徐彩源の年譜にある、1943年12月、朝鮮総督府労務指導員の資格習得の持つ内容が重要である。44年から45年にかけて朝鮮総督府事業の工事現場に赴任している。公立普通学校卒の学歴が重用されたのである。
金達寿や張斗植は朝鮮で公立普通学校に学んでいない。張斗植の場合は日本で教育を受けている。それでトラック島の飛行場建設に赴任できたのであろう。
徐彩源は44年3月に咸鏡南道文川郡元山北港の築港現場に赴任している。12月に帰郷し、45年4月には平安南道江西郡の工事現場へ赴任している。労務指導員の資格が使われたのである。
徐彩源は公立普通学校を卒業して、京城府並木町の商店に勤務、それから黄海道延安郡に移り、39年には清津市大和町の大和屋に勤めている。43年の朝鮮総督府労務指導員の資格習得までに、朝鮮全土を回っている。朝鮮半島北部の言葉に通じたのである。
金達寿と徐彩源との初対面は73年であった。その時に二人が意気投合したのは、金日成の言葉が社会党の佐々木更三似のズーズー弁である、ということだった。二人とも郷土は半島の南海岸であったが、二人はソウルでの生活体験があった。
二人は朝鮮総聯に所属していたが、民族学校の朝鮮語教育が平壌文化語によってなされていくことに、強い違和感を抱いていた。徐彩源は民族学校の設立など、民族教育の現場を知る立場にいただけに、金達寿のいうズーズー弁は不味い、に同調した。 |