すなわち、飯豊青姫は清寧の正妃であったことを暗喩するものであり、妃もなく子もないという清寧は、実は手白香姫という娘がいたことを『先代旧事本紀』は記している。飯豊青姫が清寧の正妃であってこそ、飯豊青姫の称制がなり立つことになる。だれもかれもが称制できるわけではなく、みなが認める条件が必要となる。その条件こそが、飯豊青姫が清寧の正妃であったということだ。
清寧は、『記・紀』に影の薄い存在として描かれているのだが、それは清寧が実際に即位していたかどうかの疑問にも通じている。清寧2年に、子がない清寧のために白髪部(舎人・膳・靱負)を置いたという記述に続き、伊予来目部小楯が市辺押磐王の子の億計(仁賢)、弘計(顕宗)を発見し、翌年には宮中に迎え入れたと記す。
その際、清寧は2王子を迎えて喜んだとしているのだが、果たして事実であろうか。その時はもう清寧はこの世の人ではなかったのではないかという疑念が生じるからだ。清寧を亡き者にしたのは、あるいは飯豊青姫ではなかったかと考えられる。飯豊青姫の不交宣言はクーデター宣言であったことを暗喩していると思われるからだ。
雄略没後、吉備は自立への道を歩もうとしたという見方があり、そのためには百済王家との提携を深めて先進文化導入を確保することが急務で、それには出雲・筑紫の統領を統属下におくことが不可欠の要件だったという。吉備はもともと百済系大和王朝の支配下にはなかったと見られている。
吉備は、新羅系山陰王朝の有力根拠地の一つであり、常に百済系大和王朝とは対立関係にあった。吉備津彦が天日槍に比定される説もあることから、吉備氏族は沸流百済による大和侵寇以前に吉備の地を領知していた氏族であり、後来の沸流百済の支配下に置かれることなど、我慢できない状況であったと思われるのだ。
その吉備を、雄略は攻略したのだが、完全に支配下におくことはできなかったように思われる。それゆえ、雄略没後に吉備の諸勢力が蜂起したと考えられるのだ。
日本の文明・文化は韓地からの渡来人がもたらしたもの
『日本書紀』は、日本の歴史がこうあってほしいと願った歴史小説だと指弾したが、日本列島にはもともと縄文人と呼ばれた人種が居住し、縄文文化を花咲かせていたと見られている。そこへ、弥生人が日本列島の中央に進出し、縄文人は北と南に追いやられたと考えられる。それが、現在の北は蝦夷人であり、南は沖縄人と見られているのだ。縄文人と弥生人が断絶していることは考古学の定説だ。 |