大王(天皇)の反正はハンゼイと訓まれているのだが、普通名詞の反正とは、辞書を引けばハンセイと読み、「以前の正しい状態にかえすこと」とある。
反正という普通名詞が使用されている例として、朝鮮朝時代の中宗反正、仁祖反正などがあり、中宗反正は1506年の出来事で燕山君を廃位、追放して18歳の晋城大君を擁立したクーデターのことだ。仁祖反正は1623年、クーデターによって光海君を廃位し、仁祖を擁立して即位させた事件のことで、ともに旧にもどして正しくすると標榜した。
去来穂別(履中)に対する住吉仲の反乱の実相というものは、住吉仲と瑞歯別(反正)との後継者争いであったのだが、それは安曇・海部氏族と和珥氏族との覇権闘争でもあり、結局は和珥氏族が勝利する形になり、応神朝の状態に戻したということを示唆している。つまり反正朝は、応神朝の状態に戻ったことを意味するのだ。
『日本書紀』は史書ではなく小説ということ
菟道稚郎子は、大鷦鷯と大王位を譲りあっている間は大王であったという見方もあり、菟道稚郎子の妹である八田姫が瑞歯別の母であったから、菟道稚郎子の流れに返ったということを意味すると考えられる。菟道稚郎子は応神の太子であり、仁徳に敗北したのだが、瑞歯別こと反正は、菟道稚郎子の時代に戻ったということになり、それが反正という漢風諡号になったと考えられる。
応神朝は沸流百済と和珥氏族による合体両面王朝であったのだが、仁徳(沸流百済)の勢いに押されて、菟道稚郎子(和珥氏族)が沈没してしまった。淡海三船が、そのことを知っていて反正という諡号を与えたかどうかは定かでないのだが、仁徳朝に沈没した和珥氏族が、瑞歯別(反正)を擁して元の状態に戻したこと、平たく言えば返り咲いたことを意味していると思われる。
敷衍すれば、和珥氏族は新羅系山陰王朝の象徴であり、沸流百済によって樹立された百済系大和王朝を抑え込んで、原初からの倭地の住民である新羅=伽耶系の正しい王朝に戻したということを意味しているとも考えられる。とまれ、その反正朝の記述は極めて短いもので、事績は皆無に等しい。
『記・紀』編著者らによるそのような冷遇はどこから生じたのかは明らかにすることはできそうにないが、反正の在位期間の6年間は、雨風節にしたがいて、五穀ゆたかに穣り、万民栄えて、天下大平なりき、とあり、平和で豊かな時代であったことを示唆し、反正の実像として、2メートルを超す偉丈夫の和珥氏系大王であったろうことが浮かびあがってきた。 |