今から1600年も前に、倭の五人の王が日本列島だけでなく韓半島の高句麗以南の地域を軍事支配していると主張し、中国の南朝に朝貢、叙正を求めたという記録が宋書にある。まだ列島に統一国家も出来ていなかった時代に、そんなことは事実なのか。五人の王とは何者なのか……などなど疑問は果てしなく広がる。
宋書にある五人の王の名を年代順に紹介すると「讃」「珍」「済」「興」「武」。誰と特定できないものを含め約60年間に13回もの朝貢記録があり、中国王朝との冊封関係となった。
前回は讃・珍・済まで書いたが、残る興と武はどうだったろう。
462年の興の朝貢は苦いものだった。済が得ていた『使持節・都督・倭・新羅・任那・加耶・秦韓・慕韓六国諸軍事。安東将軍・倭国王』という爵号を得ることができず、最後の「安東将軍・倭国王」だけに戻ってしまった。
最後となる478年の武の朝貢では韓半島南部5カ国(地域)の軍事権が再び認められたうえ、安東将軍から1ランク上の「安東大将」への昇格がようやく認められた。
おお、ついにやったか! 大願成就と思いきや、そうでもなかった。
まず、珍の時代から執拗に求め続けてきた百済への軍事権は認められることはなかった。倭は終始百済の朝貢が表敬訪問なのに、それを服属と思いこんだのであろうし、新羅も同様の理由から軍事権を主張したのであろう。
一方、当時、どこかの列島勢力が半島で高句麗と対峙していたことは明らかで、このため高句麗に対抗するために同じランクの爵号を求めたが、それも叶うことはなく、せっかく得た安東大将軍は2ランクも下であった。
武はようやく大将軍の爵号を得たわけだが、なんと宋王朝はその翌年に滅亡してしまうという大どんでん返しが待っていた。宋王朝の末期は26年間に5人の皇帝が立つ大混乱で、簫道成という軍閥の将軍が宋に代わる南斉という新王朝を建国。それは穏やかな禅譲による王朝交代であったとされているが果たしてどうだっただろうか(ちなみに南斉もわずか23年で滅んでいる)。いわば宋王朝末期のドサクサ状態のなかでの駆け込み叙正といえよう。
おかしな事態はまだある。倭王が軍事支配していると自認して認められたはずの加耶(高霊にあった大加耶か)の王の荷知が、建国したばかりの南斉に朝貢して輔将軍・加耶国王に叙正されているのだ。これは一体どういうことだろう。
前号でも少し書いたが、加耶と並んで倭のリストにある秦韓と慕韓も大変不思議だ。秦韓は辰韓のことで新羅となったのであるが、5世紀にも新羅に統合されない地があったのだろうとか、慕韓は馬韓のことで、百済にまだ統合されない地があったという説があるが、やはりすでに消滅した国(地域)だったと思う。倭側の主張は今少し話題になっている言葉で言うなら、”盛っている”としか思えない。
こんな事態に懲りたのか、武の朝貢を最後に中国王朝との交流を120年余り絶つ。再び交流が始まったのは遣隋使からである。
古代史学者の大勢は「讃」はいわゆる河内王朝の応神か仁徳か履中のいずれか。「珍」は反正。「済」は允恭。「興」は安康。「武」は雄略天皇に比定しているが、名前が変なのも謎。天皇の名は死後に贈られた漢風謚号で、古代の名は8世紀末にまとめて付けられたもので本当の天皇の名は和風の諱だろう。
例えば履中の諱は去来穂別なのだが、倭の使者が口頭で王名を伝えたと想定、宋側は耳にした発音から文字化したと考え、和訓の「ザ」を採って「讃」としたのではないかとした説。一方、反正が「珍」となったのは瑞歯別の瑞をとろうとしたのだが、瑞と珍の字が似ているので間違えてしまったという説。
安康が「興」とされたのは穴穂の「ホ」と興の音「ホン」が似ているので「興」になった説など、歴史学者の比定理由もなんだか苦しい。ただ、最後の「武」だけは大泊瀬幼武で、その武が正しくとられたとし、武は雄略でいいと衆目の一致するところとなっている。
確かにこの時代、南朝に朝貢した高句麗王の長寿王は「璉」、百済の膿支王は「映」と一字で、それは南朝の慣例という説が強いが、一方、南夷の国の王は長い王名が記されているのが変。たとえ朝貢国とはいえ一国の王の名前を切り取ったり、削ったり、字を選ぶとしても二番目だったり、五番目だったり。しかも書き間違いを想定するなどわけがわからない。吉字を選んで倭王が自ら名乗ったという説もあるがやはり変。
倭の五王って、いったい何者なのか? (つづく)
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