9月末で終わったNHK朝の連続ドラマ『虎に翼』は、現代社会で生きづらさを抱えるさまざまな人々の共感を呼んだ。戦前・戦後を通してマイノリティーとして生きてきた人々を、ここまで描写できたことには素直に拍手を送りたい。
しかし、韓国のドラマの描き方と比べると、日本のドラマはやはりまだ及び腰のような気がしてしまうのは事実である。そこに歯痒さを感じてはいるのだが、だからといって、世の中を変えるためには痛みが伴うと覚悟しているかといえば、とてもそうは言えないわけで、やはり筆者もまた、まだまだ生ぬるい場所にいると言わざるを得ないだろう。
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ドラマ『恋人~あの日聞いた花の咲く音』の主人公は周囲の蔑みや非難に晒されようとも生きることを選び取る。
この時代、女はもちろんだが、男もまた既成概念のぶ厚い重石に身動きが取れずにいたはずだ。それでも当然のように愛する人を包み込み、堂々と前を向く人々が描かれる。そんなはずはなかった時代を、無理矢理にでもそう描き切ってしまうところに、潔さと覚悟を感じるのは筆者だけではないだろう。どうだ、と言わんばかりの手法に、負けました、と頭を下げてしまう私たちだ。
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一方、小説『何も言う必要がない』には著者ファン・ジョンウンの実体験が反映されているということは前回も言及した。著者は光化門広場で行われたキャンドル集会に参加し、「革命」が成功する瞬間を待ち望む数多の人々の中にいた。だが、この集会の成功が「革命」だという考え方には、即座に同意することができずにいた。著者はこの広場で、時に女性や少数者を嫌悪し、排除する言葉を聞く。
あれほど多くの人たちが集まり、大統領が罷免されても、韓国社会で少数者として生きる人々の日常は変わらない。
著者は言う。革命が完成されたとみんなが歓呼している瞬間に、いまだ到来しない未来を待つ人々がここにいるという物語を書きたかったと。
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2017年3月10日、大統領が罷免された。光化門でこの知らせを聞いた人々は民衆の勝利に沸き返っただろう。底冷えのする広場で寒さすら感じなかっただろう。ウエーブが起こり、人々のお祭り騒ぎがいつまでも続いただろう。だが、まだ終わってはいない。キャンドル集会を外から見ていたわれわれは民衆の力に驚きたじろいだものだが、その渦中にも諸手を挙げて喜べないさまざまな事象が内在していることを知った。
高揚の中の敗北感はこれもまた痛みを伴うものだ。繰り返されていく周回の今はどのあたりにいるのだろうか? そろそろゴールは見えるだろうか? いやいや、まだ半分も来ていないのか?
翻訳家・斎藤真理子氏の解説を読むと、彼・彼女といった男女の区別を、あえて排除した原文をどう訳すか、苦心した様子が語られている。韓国語に比べ、男女差が非常に多い日本語でどう表現するか? 男女とも同じ言葉を使っている一人称、三人称をどう訳すべきか、翻訳家一人の力量に任される問題ではない。
こうした身近なところから、変えていこうという彼らの思いがまぶしく映る。 |