「ボッタリ」と家族離散
8・15の喜びは束の間だった。韓国にとっての解放はすなわち、日本にとっての敗戦を意味した。戦後の混乱期において日本列島は、銃声が鳴らないサバイバルゲームの戦地に他ならなかった。
大阪に暮らす金聖大(キム・ソンデ)少年の家族も例外ではなかった。敗戦を境に一転、食うや食わずの日々が訪れた。裁判官ですら米を入手できず飢え死にしたと報じられるほど、「飢え」は日常のものとなっていた。
ソンデの家が困窮したのは、鍵工場の廃業がきっかけだった。部品資材の需給が滞り、製造がままならない状況に陥った。戦後、日本の物資生産力は太平洋戦争時の10%程度にまで急落した。
工場の機械は動きを止めた。しかし、指をくわえてただそれを眺めているわけにはいかない。職を失った父は仕事を探し回った。そのころ、朝鮮人部落がある猪飼野周辺に新しい市場が形成された。鶴橋闇市だ。
父は市場で職を探し、日雇い労働の場にも足を運んだ。しかし、闇市はまさにサバイバルゲームさながらだった。利権と腕力、合法と違法のはざまで生き残るためには、よほど屈強な意志が必要であり、安定した職を得ることは極めて困難だった。1946年の某日、父は満を持して家族に告げた。
「このままでは野垂れ死ぬだけだ。未練を捨て、ソンデを連れて故郷に帰ろう」
ソンデ少年は両親に手を引かれて帰国船に乗り込んだ。6歳の子どもにとって、初めて目にした済州は神秘的な島だった。黒々とした玄武岩に囲まれた村、雲の上に浮かんでいるかのような漢拏山、そよそよと吹いてくる海風。少年はそんな大自然に圧倒され、また魅了された。
しかし、まったくもって馴染みのない場所だった。6歳まで大阪で生まれ育ったため、韓国語もできなかったし文化も違っていた。聖大少年がカルチャーショックを受けていたそのころ、両親は日々の生活にひたすら奮闘していた。故郷に帰ってきたものの、彼らにふさわしい仕事がなかったのだ。鍵工場で身につけた金物の製錬技術は農業には何の役にも立たなかったからだ。
両親が背水の陣で挑んだ仕事は「ボッタリ」だった。「ボッタリ」とは本来、商品を風呂敷に包み、各所を回りながら商売する人のことを指す。当時、韓日間を往来する個人の貿易商をそう呼んだ。輸入禁止品目まで取り扱うため、一部では「密輸業者」とも揶揄されていたが、物資が貴重だったその当時、「ボッタリ」は韓日貿易のパイプ役でもあった。
連絡船「グンデファン」を利用し商売をしていたある日のことだった。突然、韓日間の航路が全面的に途絶えてしまう。52年、サンフランシスコ講和条約を締結し主権を回復した日本は韓日路線の運航を遮断した。
この件が金聖大一家を直撃した。両親は大阪で足止めをくらい、一夜にして離散家族となってしまったのだ。少年は祖父母と共に暮らしながら済州での生活に適応していった。
「母さんはいつ帰ってくるんだろうか」
胸の中でそう繰り返しつつ、朝晩埠頭に出ては日本へと続く海を眺めることが日課になっていた。
(ソウル=李民晧) |