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2022年12月09日 12:14
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新解釈・日本書紀 応神<第65回>
伴野 麓

(82) 王仁がもたらした千字文(せんじもん)
本居宣長著『古事記伝』は「論語はさることなれども、千字文を此時応神16年に貢りしと云ことは心得ず、此御代のころ未此書世間に伝はるべき由なければなり」と述べて、その伝来の年代に疑義を呈している。
新井白石は、漢字の伝来をほぼ1世紀ごろと推定した。応神16年に伝来してきたのは千字文そのものではなく、その同じ時代に中国で広く流行っていた千字文類のものであったろうという解釈だ。その新井白石説に似ているのが、那珂通世(なかみちよ)や島田重礼(しまだちょうれい)らの説だ。
それに対して、富士谷御杖(ふじたにみつえ)は、「応神帝の御時、王仁がたてまつりしは、今世流布の千字文にはあらで、魏晋のよにありし千文なることうたがひなし」と述べ、伴信友も、「王仁が持参れるは誰が作りたりしにもあれ、そのかみ百済にて世にありし千字文なりと心得てありぬべし」と述べている。
すなわち、誰の作であろうととやかく探らなくても、そのむかし百済の中で使われていた千字文であったろうと考えればよいのだと割りきっているのである。
李丙寿は「千字文にも魏の鍾繇(ショウヨウ/151~230年)がつづったものと、梁の武帝代(502~549年)の周興嗣(しゅうこうし)の作があるため、それのうちいずれを王仁が持って渡東したかが問題である。王仁の渡東年代をおおむね百済の阿花王の末ごろ(405年)に見積もれば、当時は東晋の安帝代にあたるため、梁の周興嗣の千字文がつづられるはるか以前である。したがって王仁が持って行った千字文は、周氏のものではなく魏の鍾孫のものにちがいないことになる」と述べている。
中国の西域で数多くの論語や千字文が発見され、それは、中国文化が周辺諸国に波及したことを示すもので、韓半島にも波及したことが容易に推察できる。本居宣長などは、周興嗣の千字文を想定して、応神16年に千字文が存在するはずがないと弁じている。李丙寿は、王仁がもたらした千字文は魏の鍾孫のものだと述べている。
江戸時代の木村正辞(きむらまさこと/文政10年~大正2年)は『百済貢献の千字文』の中で、「按ふに応神帝の時、百済より貢りたる千字文は、即此鍾孫の千字文を伝へたるにて、周興嗣次韻以前のものなり」と述べている。
鍾孫が千字を集めたものを、後に周興嗣が手直しして使用したといい、その方が便利であったため、鍾孫の千字文はしだいに忘れ去られたということだ。その鍾孫の千字文が百済に伝わっていたと見られているのだ。
荻生徂徠(おぎゅうそらい)は、日本文教の四大恩人として、王仁を筆頭にあげ、つぎに吉備真備(きびのまきび)、そのつぎに菅原道真、そして藤原惺窩(ふじわらせいか)をあげている。王仁の渡来はまさに、「一人の識者は、千人の武夫に勝つ」というものだ。

※千字文
漢字習得や書の手本として用いられた漢文の詩。1000の異なった文字が使われ、一字も重複していない。

2022-12-10 6面
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